避難指示解除から1年~テレビに映らない双葉町

 双葉町に人が住めるようになって一年になる。

 昨年10月1日。双葉駅の西側にはモダンな復興住宅がオープンし、今も増設が続いている。
 ここに、一早く入居した松浦トミ子さん(87)がいる。「病院もない、店もないのに、本当に双葉に帰るつもりなのか」という周囲の言葉にも「そんなの覚悟の上だ」と言い切った。

松浦トミ子さん

 松浦さんの自宅は、まだ避難指示が解除になっていない。自分の家に住むことはできないが、それでも双葉の空気はいいという。暑さで窓を開け放していると、工事による砂埃が入ってくるが「いちいち文句言っても仕方ないでしょ。働いてる人だって大変なんだから」
 我慢強い松浦さんだが、ひとつだけガマンできないのは、お墓に行くにも事前申請が必要だということだ。親戚が大勢墓参りに来た時に、一人だけ申請漏れがあり、入れなかったことが悔しかったという。「せっかく双葉に帰って来たのに、墓参りも自由にできないとは」

 避難指示が解除されたといっても、町全体の面積の15%。そのうち、津波の被害を受けた中野中浜地区では先行的に解除が進められ、宿泊はできないものの、伝承館や産業交流センター、企業、ビジネスホテルが次々と作られていた。駅から2キロほど離れたこの空間は、テレビにもたびたび映し出され、さながらテーマパークのようだ。

ビジネスホテルと入浴施設

次々と誘致される企業は20社以上

伝承館脇でビアパーティー

 その一方、双葉町の大半(85%)は「帰還困難区域」だ。中間貯蔵施設に隣接する細谷地区にある、鵜沼久江さんの家を訪ねた。ここも、申請を出さなければ入ることができない。除染も解体も進まず、12年前のまま。ただ朽ち果てるのを待つのみか。
 鵜沼さんは50頭の牛を飼っていた。牛舎には牛糞が厚い層をなしていたが、随分薄くなっていた。一度も除染をしていないのに、放射線量は随分下がっている。「風に吹かれて、飛ばされたんだと思うよ」と鵜沼さん。

 選ばれた箱庭みたいなだけが「明るい復興」を演出している。そう思えてならないのだ。

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双葉盆歌を聴きながら

7月15日、双葉の盆踊りが13年ぶりに双葉町で行われました。

夕方五時、双葉駅前広場。

先祖の供養のために長く歌い踊り継がれてきた「双葉盆歌」は、全国に散り散りになった双葉の人たちが、避難先でも続けてきた伝統芸能です。私は埼玉県加須市で毎年のように盆歌を聴いてきました。2011年の8月14日、双葉町民が騎西の人達との交流を兼ねて、旧騎西高校のグラウンドで開催された盆踊りは、今も忘れることが出来ません。避難先ではじめて、双葉町の人たちが主体となり、自分らしさを披露することが出来たのではないか。そう感じたからです。普段はあまり交流のなかった地元加須市の人達も、この日はグラウンドに来て、一緒に盆踊りを楽しんでいました。あれから12年たち、双葉は「帰れる町」になりました。

双葉町には集落ごとに太鼓や笛や歌い手の名手がいます。途切れることなく盆歌をつなぐ「櫓の共演」のことを、私は2019年に公開された映画『盆歌』(中江裕司監督)で知りました。映画の中では、仮設住宅のあったいわき市南台で「櫓の共演」のシーンが撮影されていましたが、圧巻でした。いつか双葉町で実現することができるのだろうかと思っていましたが、この日ついに双葉駅前で、長塚地区をはじめ6地区による櫓の共演が行われたのでした。映画の主人公でもある、せんだん太鼓のリーダー横山久勝さんも、この日、避難先の本宮町から双葉駅前にやってきました。

映画『盆歌』より

横山久勝さん

主催した木幡昌也さん

主催した「未来双葉会」の木幡昌也さんのかけ声で始まった盆踊り。およそ二時間半、途切れることなく双葉盆歌がつづきます。久しぶりに会う双葉町民は「涙が出そう」「避難してから今まで、無我夢中だった。今日やっと『懐かしい』という感情が湧いた」と感慨深そうでした。「やぐらの共演は、もっと激しくてね。櫓から落っこちる人もいたのよ」と教えてくれる人もいました。

横山久勝さん

横山久勝さんに話を聞きました。
私「盆歌の映画で観た『櫓の共演』は激しかったですよね」
横山「そうだね。テンション上がるまでには長い時間が必要。暗くなって来ないとテンション上がらないんだよね」

仲間たちと一緒に太鼓の練習をすることも難しくなっていますが、それでも横山さんは太鼓を叩く体力だけは維持しようと努力しているそうです。

「双葉でやれるようになったといっても、昔の双葉駅と違う。今日ここにいるのは双葉の人よりもよそから来た人の方が多いけれど、・・・そういうふうになっていくんでしょうね。よそから来た人でも、教えて欲しいという人がいたら教えるから、引き継いでほしいよね」

   浴衣姿や子どもたちも大勢集まり、櫓を囲みます。何人かの人に話を聞いてみました。東京から来たという18歳の女性は、大学に入ったのを機に、東日本大震災の被災地を旅しているが、双葉町が一番きれいで好きだと言います。復興後の明るさを、いつか表現してみたいのだと。・・・

そうなのか。あの震災と原発事故のとき6歳だった彼女にとって、双葉町が背負ったものは過去のことなのだ。胸が詰まりました。帰れる町になったというのに、なぜ町の人たちの多くは帰って来ないのか。12年間この町の人たちはどうやって暮らしてきたのか。物事には光と影の両方があるけれど、影の部分にも目を向けてねと、彼女にそう言うのが精一杯でした。

今、双葉町を見学する大学生も増えています。彼らの目に、双葉町はどんなふうに映るだろう。原発のある双葉町。その歴史は、まだ終わっていません。原発事故はまだ収束していないのだということを、忘れてはいけない。放射能が降り注いだ大地。その上につくられた「復興」の脆さを感じながら、この駅に降り立つ必要があるのだと思います。

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元気農園での一コマ

 元気農園は、埼玉県に避難した双葉町民が、地元の人から借りた畑で野菜を作っていて、もう12年になります。
双葉にいたころ、畑作業は大半の人たちにとって当たり前。避難先でも小さな庭で野菜を育てる人は少なくないのですが、こんなふうに皆で集まれる畑があるのはいいことです。

 七月に入って間もない日曜。炎天下の中、キュウリが大量に育っていました。隣りのピーマンと比べてみれば、どれだけ大きいか、わかるでしょう。

 自転車で通りかかった地元のおじさんが「ずいぶんでっかいキュウリだなー」と声をかけてきます。
 口が達者な双葉町のFさんが返します。「スーパーで売ってるような細いキュウリは、うちの畑では作ってねえんだよ!」
 そんなやり取りにゲラゲラ笑っていたら、なんと私の車いっぱいに、オバケキュウリが積み込まれているではありませんか。Fさんの仕業だな。どうしよう・・・。

 キュウリ、ナス、ピーマン、シシトウ、ジャガイモ・・・天候不良で不作だと言いながらも、野菜たちは逞しく育ちます。これを販売できればよいのですが難しく、双葉の人たちが分け合ったり、ご近所に配ったりしているのですが、人手が足りません。12年の間に、畑に集まる人が減ってきたからです。

 埼玉の夏は、双葉の夏に比べると、えらく暑いといいます。汗だくになって作業を終えた皆と、持ち寄った漬物やお菓子を食べ食べ、たわいのない話が始まりました。

 「双葉の人は何だってまあ癌になる人が多いから。私ら避難してくるときに、たくさん浴びたんだと思うよ」
 「スクリーニングの時、あんまりに線量が高いから『原発で働いてたのか?』と聞かれた。俺は原発で働いたことなんてないよ」

 「最初の頃、一時帰宅でバスに乗って双葉に行くとき、線量計を身につけさせられたけど、えらく数値が高かった。もっとも双葉の人たちは、自分の家がどうなってるかしか考えてないから、放射線量なんて気にする余裕もなかったけどね。それから一年くらいしたら、線量計の単位がμ㏜からm㏜に変わってて、ほとんどゼロになったんだ。そんなことに気が付いた町民は、ほとんどいないけどね」

 「私たち、こういうとこで、こうやって話すしかないんだよ」

 「ガンと原発事故との因果関係はない」。甲状腺がんになった10代の若者に、医者はこう釘をさしたそうです。かけがえのない声が、権威によって潰されないように、小さな声を集めていきたいと思います。

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 ところで、問題のキュウリはどうなったでしょう。翌日、遠路はるばる浪江町の希望の牧場に届けました。
 牛たちの口に合うといいなあ。

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復活の碑

 日本の快水浴場百選に入る双葉海水浴場、浜野地区。浪江町の請戸に隣接するこの地域は、あの日、大津波にのみ込まれ、亡くなったり行方不明になった人が16名いる。
 この地区にある中浜八幡神社も流されたが、住民の強い願いによって2021年に再建された。

 そして6月4日。神社の前に『復活』の文字が刻まれた石碑が建ち、除幕式が行われた。梅雨の入口のこの日は、朝から見事に晴れ渡っていた。
 集まったのは、この集落の人たち、石碑づくりに協力した人、取材陣ら40人ほど。津波の犠牲者に黙とうをささげた。

 「復興が計画通りに進んだと実感できる。感謝申し上げる」という町長の言葉が代読された。この一帯は、家が跡形もなく流されたというのに、双葉町の中で最も放射線量が低く、いち早く立ち入りを許可されるようになった。企業の誘致がいち早く進み、伝承館やビジネスホテル、温泉施設までできた。地図は塗り替わったのだ。
 これらをみるたびに、復興とは何だろうかと思わずにはいられなくなる。ヨソモノの感傷にすぎないのだろうか。

 黒御影(くろみかげ)の石碑の裏の文字を揮毫しながら涙したと、加須市に避難している双葉町民の書家、渡部翠峰さんは挨拶で語った。中浜行政区長、高倉伊助さんの妻、さだ子さんが考えた文章だ。
 中浜で生まれ育ち、福島県須賀川市で避難生活を続ける高倉さんは、真っ黒に日焼けしていて67歳とは思えないほど若々しい。「みんなが協力し合い、結束した地区だったナ。それから負けず嫌い。俺たちは浪江町の請戸小に通ってた」 「双葉町の9割は手付かずなんです。我々の地区は「動ける一割」に当たるが、戻ってくることは不可能。帰れる場所じゃないね。でも、動ける場所だから動いて、できることで世話になった人たちに恩返ししなければね」と言う。
 石碑の隣にある「あずまや」は、ここを訪ねた人が世間話でもしてくれたらと思って建てたのだそうだ。

 津波で母親を目の前で亡くし、命からがら生きのびた菅本章二さんも、除幕式に参加していた。「今は原っぱだけど、ここは全部家だったんだよ。石碑が出来て、自分の家の目印ができてよかった」と満足そうだった。八幡神社の思い出を聞くと「夏休みとか、ここで同級生と勉強したんだ」という。神社を囲む竹林に風が吹き、さわさわと心地よかった。

『復活を願い』
 ここ浜野地区は、阿武隈の山並みを背に広がる、素晴らしい田園地帯であった。風光明媚で志木の色調変化の見事さは、自然とのつながりがみせる技といえる。
 2011年3月の東日本大震災により、14名の大切な命を亡くし、未だ全戸避難に至っている。
 このようなことが二度と起こらないことを祈るばかりである。
 災害時の注意喚起や勧告には素直に耳を傾け、命最優先の行動をとってほしい。
 いずれまたこの地に人々が根を下ろすだろう。
 自然と共に生き生きと息づく姿を思い描き、「復活」を願う記念碑を、ここに建立する。

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いのちについて 小出裕章さんが書いていたこと

レイバーネットТVのスタジオ

 4月12日、レイバーネットTVで元京都大学原子炉実験所の小出裕章さんをお呼びし、「原発回帰ホントにいいの?」という特集を放送した。

 レイバーネットTV放送はこちら

 国が避難指示を出した区域が、12年の間に次々と解除になり、人が戻されている。しかし、放射能は事故前に戻ったわけではない。
 かつて小出さんが、被ばくの対価としての報酬をもらって仕事をした放射線量と同じ基準で、子どもを含む人々が生活させられている。これは棄民政策だと小出さんは語った。
 福島第一原発が今どういう状況なのか、なぜ汚染水を海に流そうとしているのか、そして、事故の責任をとらないどころか人々を欺き、原発政策に大きく舵を切るこの政治下で、自分がどう生きようとしているのか。死生観にまで踏み込んだ話は、すでに講演や著書で小出さんを知っていた私も、強く心を揺さぶられるものだった。放送は大きな反響があり、たくさんの感想が寄せられている。

小出裕章さん

 小出さんは「こうすべきだ」とは言わず「私はこう思う」と言う。人は一人一人生きていて、違った人間たちだ。さまざまな人たちから、よくも悪くも影響を受ける中で、自分の生き方を決め、それに誠実に生きることしかない。限られた短い人生、それで十分なのかもしれない。

 驚いたことに放送終了後、小出さんがスタッフ宛にメールを下さった。そこに「レイバーネットTVでは、原子力や福島事故のことだけでなく、子どものことまで口にしてしまい、余計なことだったと反省しています。でも、生き方そのものについてお受け止めくださったようで、感謝します」という一文と共に、1990年に書いた文章が添付されていた。
 これは小出さんの著書「放射能汚染の現実を超えて」(北斗出版、河出書房新社)におさめられているものだが、ふたたび多くの方々に触れてもらいたいと思い、ご本人の許可を得た上でここに紹介する。

 私はこの文章に、今とても勇気づけられている。

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生命の尊厳と反原発運動

【人類は自ら蒔いた種で、遠からず絶滅する】
 五十億年近いといわれる地球の歴史の中で、人類といえる生物種が発生したのはわずか数百万年前のことである。その人類は自らの生物種が属する類を、「霊長類」と名づけ、そして自らのことを「万物の霊長」と名づけている。しかし、人類の種としての絶滅は、いまやはっきりと目に見えるようになってきた。

 過去二〇〇年ほどの間に科学技術は急激に進展し、浪費も拡大した。その歴史は、人類の種としての生存がそれほど長く続かないことを示している。核戦争、原発事故による放射能汚染、その他の化学物質による汚染、資源やエネルギーの浪費による環境の破壊、それらのいずれもが人類の絶滅をもたらす力を持っている。何が決定的な絶滅の要因になるかは断定できない。しかし、人類の生存可能環境を人類自らが失わせるまでに、どんなに長くとも一〇〇年あるいは千年の単位であることは疑えない。結局、人類の今後の生存期間は、数百万年という過去の生存期間からみれば、いずれにしても誤差の範囲でしかない。

 中世代に地球を征服していたといわれる恐竜は、ある時期に突如として地球から姿を消した。「万物の霊長」たる人類からみれば、巨大であっても、まことに頭の悪い野蛮な動物であったというのが一般の見方であろう。しかし、その恐竜たちは一億年にわたって種を維持していたのである。恐竜の絶滅の原因については現在でもさまざまな議論が続いている。それを、宇宙からの巨大な隕石落下に求める説もあるし、進化の過程で巨大化しすぎ自らの生命体を維持できなくなったためとする説もある。しかし、恐竜からみれば、いずれにしても万やむを得ない過程を経て絶滅にいたったのである。それに比べ、人類の絶滅の決定的な要因は、人類が自ら蒔いた種によるのである。まことに自業自得というべきであるし、人類は恐竜以上に愚かな生物種であったというべきだろう。

【人類が絶滅しても、地球は新たな生命を育くむ】
 現在世界には一万七〇〇〇メガトン、広島の原爆に換算すれば、一四〇万発分の核兵器が存在している。それが一挙に使用されることになれば、ほとんどの人々が即死、あるいは短期日のうちに死亡する。また、かりに直撃を受けず生き残っても、訪れた「核の冬」のもとで、じわじわと生命をむしばまれていく。複雑な遺伝情報をもった人類が、放射能汚染のもとで種として生き延びることも、できそうにない。

 一九七九年に米国のスリーマイル島原子力発電所で大きな事故が起こった。当初、原子力推進派は原子炉の心臓部である炉心は熔けていなかったと主張していた。ところが最近では、炉心の約半分が熔けてしまっていたこと、最後の砦である圧力容器にもひび割れが入っていたことなどが明らかになってきた。その原発の安全担当者は「何が起こっているのか、もしあの時運転員に分かっていたら、彼らはあわてて逃げ出していただろう」と、事故後七年半を経て語っているのである。まことに原子力発電の事故は、人知をこえて展開するのである。しかし、この事故の調査の過程で、一般には知られていない、そして、はるかに重要で驚くべき事実が明らかになった。

 圧力容器の蓋があけられ、水底深く沈んでいる破壊された燃料の取り出し作業が始まった。しかし、作業を始めたとたんに、うごめく物体によって中が見えなくなってしまったのである。そこは、人間であればおそらく一分以内で死んでしまうほど強烈な放射線が飛び交っている場所である。「さながら夏の腐った池のようだった」と作業員が報告したその物体とは、なんと生きものであった。単細胞の微生物から、バクテリア、菌類、そしてワカメのような藻類までが、炉心の中に増殖し繁茂していたのである。それを発見した作業員の驚きと、戦慄は察して余りある。結局、作業を進行させるために、過酸化水素(薬局ではオキシドールとして売っている殺菌剤)を投入して、その生きものは殺される。しかし、一度殺されたはずのその生きものは驚異的な生命力で再三再四復活し、以降何ヵ月にもわたって、作業の妨害を続けるのである。人間からみれば、ぞっとするほどの恐ろしさである。しかし、どんなに強い放射能汚染があっても、新しく生命を育む生きものたちが存在していたのである。生命は、人間の想像をはるかにこえてたくましかった。

 しょせん人類などは宇宙や地球の大きさや広さからすれば、まったくとるに足らないものでしかない。人類がこの地球上から絶滅しても、宇宙の運行はまったく変わらずに続くに違いない。また、人類が自らのものと錯覚してきた地球も、人類がいなくなったところで、何事もなかったかのように、また生命を育むのである。地球上には五〇〇万種とも一千万種ともいわれる生物種がそれぞれの生活を営んできた。人類はこれまでにも、それらのうちの数多くの生物種を絶滅に追い込んできた。そして、自らの絶滅の過程においてもまた、多くの生物種を巻き添えにする。そのことはまことに申し訳ないことだと思う。しかし、人類という生物種がいなくなった地球は、生き残った、あるいは新たに生まれた生きものたちにとって、今日よりももっともっと住みやすいに違いない。

【反原発の根拠】
 すでに四年の歳月を経てしまったソ連のチェルノブイリ原子力発電所の事故以降、世界各国において原子力に反対する運動が高揚した。そして、日本というこの国においても、多くの人たちが、事故の恐怖を理由に立ち上がった。およそすべての運動は、抑えても抑えても内部から沸き上がってくる要求に突き上げられた時に、はじめて力を得るものである。反原発運動の高揚も、そのような力に突き上げられたものであると思う。しかし、運動の展開の中で、私にはどうしても受け入れられない動きもあった。そのもっとも端的なものは、汚染の強いソ連やヨーロッパの食べものを日本国内に入れるなと、行政に規制強化を要請する運動である。

 人類は、他の生きものたちとの比較でいえば高い知能をもった生物としてこの地球上に現れた。その結果、自らを絶滅させるに足る程度には、さまざまな知識や技術を蓄えてきた。しかし、ごく当たり前のこととして、人類にはできないことも無数にある。たとえば、原爆や原子炉によって人類は放射能を生み出すことはできるようになったが、一度生み出してしまった放射能を消すことができない。チェルノブイリの事故で、人類の生活環境にまき散らされた放射能の量は、広島の原爆がまき散らしたそれに比べて、千五百倍にもなるのである。また、人類には時間をもとに戻すこともできない。もし私に時間をもとに戻す力があれば、なんとしても四年だけもとに戻し、チェルノブイリの事故がなかったことにしたい。しかし、できないのである。時間を元に戻せない以上、私たちは汚れた環境の中で汚れた食べものを食べながら生きる以外にすべがない。

 放射能は人間の手でなくすことができない。煮ても、焼いてもなくならない。日本国内に入ることを阻止できたとしても、当然、放射能はなくならない。放射能で汚染した食べものもなくならない。日本と日本人が拒否した食べものは、他のどこかで、他の誰かが食べることになるだけである。どこで、誰で食べることになるのか、想像してみてほしい。私には、それが原子力の恩恵など一切受けず、そして飢えに苦しむ第三世界であり、そこに住む人々であることを疑えない。一方、日本とは、現在三十八基もの原子力発電所を利用し、世界でももっともぜいたくを尽くしている国である。そして、その日本は世界がいっせいに原子力から撤退しようとしている今もなお、先頭になって原子力を推進すると宣言している国なのである。

 現在世界には約五十億の人間が住んでいる。それを四つのグループに分けて考えよう。そのうちのもっともぜいたくなグループは、いわゆる「先進国」と呼ばれる国々である。幸か不幸か日本もその中に入っている。そのグループは世界全体で使うエネルギーの八割を奪い去り、使ってしまう。次のグループはいわゆる「開発途上国」であり、残されたエネルギーのうちの六割(全体のうちでは約十二%)を使う。残されたグループはいわゆる「第三世界」に相当するが、その中でもエネルギーの取りあいがあって、もっとも分け前の少ないグループ、「極貧の第三世界」は全体の二%のエネルギーも使うことができない。彼らの中には飢えが広がり、現在二秒に一人づつ子供たちが餓死しているというのである。日本に住む私たちには自分の子供たちが餓死していくということは、ほとんど想像すらできない。しかし、できるかぎりの想像力を働かせて想像してみてほしい。自分の目の前で、自分の子供たちが「餓死」していく姿を。

 餓死していく子供たちとそれを見つめる以外にない親たちを、私たち日本人は「かわいそう」というべきでない。なぜなら、子供たちを餓死に追い込んでいるのは、不公平をかぎりなく拡大させてきた「先進国」であるのだし、その中で、「豊か」で「平和」な世界を満喫してきた他ならぬ私たち自身なのである。

【生き方の中にこそ生命の尊厳はある】
 人類はいずれ絶滅する。生物として当然のことである。恐れるべきことでもないし、避けられることでもない。それと同じように、一人ひとりの人間も、どんなに死を恐れ、死を回避しようとしても、いずれ死ぬ。一人の人間など、ある時たまたま生を受け、そしてある時たまたま自然の中に戻るだけである。人間の物理的な生命、あるいは生物体としての生命に尊厳があるとは、私は露ほどにも思わない。もし人間の生命に尊厳があるとすれば、生命あるかぎりその一瞬一瞬を、他の生命と向き合って、いかに生きるかという生き方の中に、それはある。

 原子力に反対して活動している人たちの大きな根拠の一つに「いのちが大事」ということがある。しかし、「いのちが大事」ということだけなら、原子力を推進している人たちにしても否定しないだろう。決定的に大切なことは、「自分のいのちが大事」であると思うときには、「他者のいのちも大事」であることを心に刻んでおくことである。自らが蒔いた種で自らが滅びるのであれば、繰り返すことになるが、単に自業自得のことにすぎない。問題は、自らに責任のある毒を、その毒に責任のない人々に押しつけながら自分の生命を守ったとしても、そのような生命は生きるに値するかどうかということである。

 私が原子力に反対しているのは、事故で自分が被害を受けることが恐いからではない。ここで詳しく述べる誌面もないし、その必要もないと思うが、原子力とは徹底的に他者の搾取と抑圧の上になりたつものである。その姿に私は反対しているのである。

 もちろん私も放射能など決して食べたくない。しかし、私たちは自ら選択したか否かにかかわらず、少なくとも現在日本というこの国に住み、原子力の電気をも利用している人間である。現に原子力の恩恵を受けている私たちが、結果としてであれ、汚染だけを第三世界の人々に押しつけることになる選択をすることは、原子力を廃絶する道とは相いれない。今日存在している多様な課題を乗り越えるための唯一の道は、それらの一つひとつと取り組んでいる多様な運動が、根元的な地平で連帯することである。その連帯を可能とする原則だけは、なんとしても守り抜かなければならない。

 ソ連やヨーロッパの汚染食料については、日本国内にどんどん入れるべきである。その上で、いかにすれば自らの責任を少しでもはたし、責任のない人たちに少しでも犠牲をしわ寄せしないですむかを考えること、そして現実の中で一つひとつ選択することこそ、いま私たち日本人に求められている。私は、日本の子供も含め世界中の子供たちに汚染食料を食べさせたくない。しかし、私自身はこの日本という国に生きる大人として、それなりの汚染を受ける責任があると思っている。チェルノブイリ事故後、私は敢えて汚染食料を避けない生活を続けてきた。今後もそのつもりである。そうすることで、現実の汚染が消えるわけではないし、世界の差別全体が解消されるわけでもない。当然、私の苦悩が消えるわけでもない。世界に苦悩があるかぎり、個人の苦悩が消えることなどありえない。世界がかかえる問題に向き合って、いわれない犠牲を他者に押しつけずにすむような社会を作り出すためにこそ、私の生命は使いたい。そして、そのような社会が作り出せたその時に、原子力は必然的に廃絶されるのである。

(一九九〇・二・二十六) 小出 裕章

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