加須市で避難生活を続ける鵜沼さんのお宅で、双葉町民を中心にした交流会を開いています。第2回は3月30日(土)。旧騎西高校での双葉町の人たちを記録したドキュメンタリー『原発の町を追われて第一部』も上映します。
復興の裏側~農業再開のカラクリ
双葉町三宮地区に田んぼを持つAさんが言った。この田んぼが畑になる計画があるのだと。
農業法人に土地を貸すことになったので、地主や関係者を集めた説明会に参加したのだが、まったく最悪だったという。
土地の賃料は一反5千円(一年)という安さ。しかも水の使用料4千円は地主負担だそうなので、実質千円にしかならない。
問題はそれだけではない。「放射能が高いかもしれない土地なんて貸したくない。でも、断れば罰金とられるってナ」
なんと、放置料として年間30万円取られるという。抵抗すればさらに裁判費用がかかると。そんなバカな話があるかとAさんは憤る。
そもそも水田だったところが何故畑か。
双葉町の田んぼの水源は大柿ダムだが、ここが放射能で汚染されているのは地元では有名な話だ。大量の水をひかなければならず、双葉町では今のところ、水耕は無理だと考えている。
田んぼより畑の方が水の汚染の影響は少ないかもしれないが、それでも「双葉の野菜など誰も買わないだろう」と土地の所有者たちはいう。もちろん「双葉産」と言って売るわけではないから、消費者にはわからないというのだが。
太陽光パネルの事業も進み、遊ばせておくよりはいいだろうと土地を貸し出す人もいるが、太陽光パネルの寿命は10年。契約書の隅に「後始末は自分で」と小さな字で書いてあるのを見落としてはならないとAさんはいう。
Aさんは腕利きの宮大工だ。自分で建てた双葉の家は、基礎だけ残して津波で流された。その後は仮設住宅の建設や修繕の仕事に駆けまわってきた。数年前に埼玉県に自力で家を建て、双葉町より広い面積の田んぼを耕している。そんな彼が言うのだから、カネが欲しくて不平不満を言っているわけではない。ただ、どうしてこんなふうに次から次へと、被害者を弄ぶようなことが上から決まっていくのか。その悔しさが伝わってくる。
先祖代々の大事な土地が放射能で汚され、故郷を追われた。それ以上の不幸があるだろうか。その被害者たちを「賠償金もらった人たち」という印象操作で黙らせて、あとはやりたい放題だ。
あまりにも杜撰な原発事故の後始末。
うやむやにさせてはならない。
語りつくせぬ思いを語れる場所を~加須市で『双葉の会』が始まる
加須市には双葉郡から避難した人たちが、今も300人ほど暮らしている。住む場所は違えど、ここが第二の故郷だという人もいる。
13年たって、苦しみが減るならいい。でも震災体験、原発事故による心の傷は、時間が経過し世間が忘れたころに、突然表面に現れることがある。
「双葉に帰れるようになったんでしょ」「もう避難者じゃないよね」
よかれと思って言われる言葉だけれど、双葉の人は言葉に窮してしまう。なかなか自分の思いは、届かないものだなと。
原発避難者は、まだまだ語り切れていない。復興は、形にできるような、わかりやすいものではないのに、目に見える建物や人数だけで計られていく。そんなものは復興でも何でもない。
双葉に帰りたくても帰れない、帰らない人たちが集まって、お茶を飲みながらしゃべる場が、コロナで中断されていた。でも、もう限界だ。
何でもいいから双葉訛りでしゃべれる場をつくりたい。
そんな思いで双葉町民、鵜沼久江さんが1月20日、加須市の自宅で『3・11を忘れない 双葉の会』を開催した。
双葉の人が10名ほど、そして支援してきた人、脱原発運動をしている人、福島のことを知らなかったという人。様々な人たちが40名も集まってくれて、双葉町民が朝から台所でこしらえた煮しめやお汁粉を食べながら、一緒に時間をすごした。
はじめてお会いする双葉町民もいた。避難した頃は小学生の息子さんを育てることで精いっぱいで、つながりを持つ余裕などなかった。当時、騎西高校には100名ほどの小中学生がいたが、加須市の学校に通った子どもたちの心中は、推し量ることができないものがあると彼女は話してくれた。
映画『原発の町を追われて 十年』の上映の後、絵本の読み聞かせのコーナーがあったが、これがとてもよかった。
双葉郡を歩いて取材しているイラストレーターの鈴木邦弘さん。『いぬとふるさと』と、これから出版が予定されている『ずっとここにいた』を読んでくれた。人間がいなくなっても双葉町には、ずっと存在し続け、生き続けているものたちがいる。人として生まれた責任というものを、鈴木さんはずっと考え続けている。
この絵本に描かれているのは「復興」の嘘くささを暴き出す双葉町の現実だ。双葉の人がみたらどう思うか心配だったと鈴木さんは言うが、参加した双葉町の女性は涙を浮かべて鈴木さんにこう言った。「私たちの思いを代弁してくれてありがとう」
そしてもう一人、「絵本応援プロジェクト」の山本潤子さん(写真)による読み聞かせがあり、とても感じ入るものがあった。「絵本は歴史書でもある」と山本さん。災害から生まれた絵本というものが沢山あり、そこには事実が描かれている。
3・11の年に作られた『あさになったのでまどをあけますよ』にはじまり、『福島からきた子』『このよでいちばんいちばんはやいのは』などを読んでくれた。
彼女の声はおだやかで優しいけれど芯がある。血管の中に沁みわたっていくようで、読み聞かせとはこういうものなのかと感動した。作者の邪魔をしないよう、想像力を働かせられるよう、感情的にならずに読むことを心掛けているという。日々異なる場所で生きている人たちが、それぞれに考え、直接にではなくても言葉を紡ぎだしていくための手段があることを知った。
双葉町の復興住宅から来てくれた人もいて『2023年の双葉町』の動画を流した。一昨年の10月に避難解除になった双葉町だが、問題は山積みだということも新たにわかった。世間の無関心をいいことに、被害者は置き去りにされている。
復興なんて誰が信じているだろう。双葉を見捨てれば、災害に見舞われたすべての地域が見捨てられる。そのことを忘れてはいけないと思っている。
*****************************
※「双葉の会」の「双葉」は、双葉町だけでなく双葉郡の避難者との交流を目指していることと、成長のシンボルであることから命名しました。隔月を目標に、定例化していく予定です。
信ちゃんの12年
知らない女性からメールをもらった。
「10年前のDVDを送ってほしいです。避難者の「彼」が出ていると聞いたので」
「彼」とは小池信一さんのことだった。予告編に出ているのを見たそうだ。
その小池さん(私たちは信ちゃんと呼んでいた)が、つい最近亡くなったというのだ。
女性は信ちゃんと、結婚の約束をしていたという。
信ちゃんは私が最初の頃に出会った双葉町民である。2011年の8月14日、日付まで覚えているのは、その日が騎西高校のグラウンドで行われた盆踊りの日だったからだ。
準備でわさわさしている昇降口で、気さくに話をしてくれた。信ちゃんは私よりチョット若かったが、故郷の話をしみじみ語った。それまで故郷の話をするのは、高齢者の人が多かったので、比較的若い彼の口からその話が出てくるのは新鮮だった。「ちょっと待って、今の話、すっごくいい。撮らせてもらってもいいかな」という私に、彼はちょっと照れながらも、よどみなく思いを語ったのだった。
両親はすでになく、兄弟もいない。長いこと大熊町の焼肉屋で働いて、そこの社長さんに良くしてもらったというが、その人とも離れ離れになって、たった一人騎西高校にやってきた。
「生まれたところで死にたいナ。生まれたとこでナ。生まれたところで変えたいナ。それはできないと思うけどネ」
それから何度か、話を聞かせてもらったが、彼の故郷への思いは格段のものがあった
そのころ、同じく双葉町から避難した書家である渡部翠峰先生が、騎西高校の中に書道教室を開いた。信ちゃんと私は生徒になり、机を並べるようになった。およそ書道とは無縁だった彼が、誰よりも熱心に通うようになった。
故郷への思いは断ち切れるものではなかったが、放射能がゼロになるまで俺は帰らないよと言った。だからここで、仕事をみつけて頑張るんだと。そんな信ちゃんに、仕事はなかなか見つからなかった。
事故からちょうど一年経った頃、原発事故の記憶は生々しいのに、再稼働の動きが出てきていた。私は信ちゃんを、首相官邸前の集会に誘った。何人かがマイクを握って演説していたが、避難者の信ちゃんに、何かしゃべってほしいと思った。案の定、彼は「何しゃべれっていうんだ」と照れていた。そりゃあそうだ。彼がマイクを握るなんてこと、カラオケ以外ではなかっただろうから。
ところが、私がトイレに行っている間に、マイクで喋り始めていたのだ。驚いて夢中でカメラの録画ボタンを押した。「俺たちは故郷をなくされた」と彼は言った。頑張るしかないという彼に「どうすることが頑張るってことなの?」と聞いたことがある。「故郷には帰れない。でも、いつか帰るんだっていう希望をなくさないってことだナ」。そう信ちゃんは答えた。
その後、信ちゃんは仕事が忙しくなり、ほとんど会うこともなくなっていた。ふと何年か前、電話をくれたことがある。持病が悪化して足の指を切断したと、とても辛いと言っていたのに、私は会いに行くことが出来なかった。
そしてまた何年か過ぎ、信ちゃんの訃報を知った。
知らせてくれたHさんによると、信ちゃんは足を切断し、加須市のアパートを引き払って施設に入っていたそうだ。そこの介護職員だったHさんと、信ちゃんは恋に落ちた。信ちゃんは、きついリハビリにも前向きに頑張ったという。Hさんを幸せにしたいと思う気持ちが、彼に生きる力を与えたのだ。
それなのに、あまりにも突然、信ちゃんは逝ってしまった。
「昔の信ちゃんが知りたい」というHさんに、撮りためた映像を送った。時を経て見る信ちゃんの映像は、私にも多くのことを思い起こさせてくれた。Hさんには双葉町のことはあまり話さなかったようだ。それでもHさんは信ちゃんの人生が、我慢の連続だったことを知っている。何よりHさんが「信ちゃんが歩いてる姿、初めて見た!」と言ったとき、何だかもう、こちらは胸がいっぱいになってしまった。
「生まれたところで死にたい」と言ってた信ちゃんは、故郷から遠く離れた埼玉の、騎西高校から車で20分ほどのお寺に埋葬されている。焼き肉屋の社長さんが、荼毘に付してくれたそうだ。
55歳。短いかもしれないけれど、避難しても病気になっても、諦めることなく、愛する人を見つけた信ちゃんは偉かったと私は思っている。
避難指示解除から1年~テレビに映らない双葉町
双葉町に人が住めるようになって一年になる。
昨年10月1日。双葉駅の西側にはモダンな復興住宅がオープンし、今も増設が続いている。
ここに、一早く入居した松浦トミ子さん(87)がいる。「病院もない、店もないのに、本当に双葉に帰るつもりなのか」という周囲の言葉にも「そんなの覚悟の上だ」と言い切った。
松浦さんの自宅は、まだ避難指示が解除になっていない。自分の家に住むことはできないが、それでも双葉の空気はいいという。暑さで窓を開け放していると、工事による砂埃が入ってくるが「いちいち文句言っても仕方ないでしょ。働いてる人だって大変なんだから」
我慢強い松浦さんだが、ひとつだけガマンできないのは、お墓に行くにも事前申請が必要だということだ。親戚が大勢墓参りに来た時に、一人だけ申請漏れがあり、入れなかったことが悔しかったという。「せっかく双葉に帰って来たのに、墓参りも自由にできないとは」
避難指示が解除されたといっても、町全体の面積の15%。そのうち、津波の被害を受けた中野中浜地区では先行的に解除が進められ、宿泊はできないものの、伝承館や産業交流センター、企業、ビジネスホテルが次々と作られていた。駅から2キロほど離れたこの空間は、テレビにもたびたび映し出され、さながらテーマパークのようだ。
その一方、双葉町の大半(85%)は「帰還困難区域」だ。中間貯蔵施設に隣接する細谷地区にある、鵜沼久江さんの家を訪ねた。ここも、申請を出さなければ入ることができない。除染も解体も進まず、12年前のまま。ただ朽ち果てるのを待つのみか。
鵜沼さんは50頭の牛を飼っていた。牛舎には牛糞が厚い層をなしていたが、随分薄くなっていた。一度も除染をしていないのに、放射線量は随分下がっている。「風に吹かれて、飛ばされたんだと思うよ」と鵜沼さん。
選ばれた箱庭みたいなだけが「明るい復興」を演出している。そう思えてならないのだ。