双葉町民、能登へ行く

大地震に続き、豪雨災害に見舞われた人たちを励ましたい。11月2日と3日、輪島市の仮設住宅で「元気祭り」が開催され、双葉町の人たち四人と一緒に参加しました。
双葉町から加須市に避難している鵜沼久江さんにとって、能登は他人事ではありませんでした。野菜が不足しているということを聞き、初めて珠洲市を訪れたのが今年の五月。以来、何度も野菜を届けてきたのです。

そんな鵜沼さんが祭りに参加すると聞いて、米を提供して下さる人がいたり、祝島からひじきを送ってくれる人も。三人の双葉町民も同行し(そのうちの一人は大学生)、二台の車に溢れんばかりの支援物資を積み込んで出発しました。

埼玉からはクルマで11時間かかったけど、もっと遠い九州や宮城など、全国から集まったボランティアが40名。前日からテントを張ったり、仮設を戸別訪問してお祭りに誘ったりしていました。
仮設の人たちに買い物を楽しんでもらおうと、すべて100円で販売するというのがこのお祭りのルール。その一角で、「双葉夢ファーム」は、鵜沼さんを中心に埼玉の野菜を広げました。果たして売れるのか?
 一日目は雨にもかかわらず、沢山の人が出て来てくれました。サンマやホタテを焼いているブースには、たちまち大行列。「魚が食べたかったわあ~」という人たちの表情に暗さはなく、みな生き生きとしてみえました。
海の幸、山の幸があった奥能登は、大地震で隆起したため漁の船が出せなくなり、収穫間近だった畑の野菜も、9月の大雨で流されてしまったそうです。

そして双葉ブースも大人気。数十キロずつ持参した大根やカブ、ずいき、里芋が飛ぶように売れていきます。買った野菜はすぐに調理して、美味しかったからまた来たよと、何度も立ち寄ってくれるのです。

狭い仮設住宅。家の立て直しは順番待ち。直してもまた壊れるかもしれん。これからどこに住もうか。途方に暮れる話を、湿っぽくなく、開き直って話すおばちゃんたち。
「これオマケね」と、鵜沼さんが袋の中に一つ多く入れてあげるのを見て、いつの間にか「これ、オマケに入れさしてもらうわ」と自分で袋に1個足してしまうおばちゃんがいて大笑い。

 

二日目は雲一つない快晴でした。
「欲しいものがあったらどうぞ」と古着をテーブルに並べると、わらわらと人が集まってきます。冬物の靴下はあっという間になくなり、刺しゅう入りのデニムのジャケットや毛糸の帽子など、急いで集めてクリーニングにも出していないのに、喜んでくれました。聞けば「服を買うところがないんよ」「これから冬支度せねばならんのに、どうしようかと思ってた」と。

 

 

 

 

 

 

 

東北の人たちは温かみがあり、どこか遠慮がちなのに比べ、能登の人たちは勢いがある。帰りの車の中で、はじめて能登の人たちと交流した双葉の人たちも「同じ避難者とはいえ、全然違うね」と。それは単に土地柄の違いなのでしょうか。

双葉町はむりやり土地から引きはがされた。町は空っぽになり、住民がいない中、国と県が勝手に町を作り変えていった。
能登の人たちには、これからも多くの困難が立ちはだかることだろう。それでも自分の土地を手放さずにいられた人たちのことを、双葉の人はまばゆい思いで見つめたのではないか。
大学生のHさんは「ここに放射能がなくてよかった」と言いました。
そんな人たちと、この先もずっと歩いていきたい。能登から帰ってきて、あらためて思う日々なのです。

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原発の町の首長がおこした裁判、大詰めに

 国と東電を相手に原発事故の責任を問うてきた「福島被ばく裁判」。30回目の口頭弁論が9月18日東京地裁103号法廷で行なわれました。双葉町長だった原告の名前をとって「井戸川裁判」とも呼ばれるこの裁判は、9年にして最大の山場を迎えました。

 午前中には原告側の証人尋問、午後は原告への本人尋問が行なわれました。原告側代理人は解任されているため、井戸川さん自身が裁判の流れを作らなければなりません。そんな大変な法廷劇を見守りたいと、多くの支援者が傍聴に駆け付けました。
 
 証言台に立ったのは、事故当時、双葉町の社会福祉協議会の責任者で、その後副町長を担った井上一芳さん(77歳)でした。宣誓文を読み上げた後、原告の井戸川克隆さん、国と東電の代理人、裁判官からの質問に答えました。

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 3月11日、私は介護施設「ヘルスケア」にいました。50名の高齢者と、地震で避難してきた200名の町民の避難誘導をした。しかし役場職員による無線放送を聞いただけで、国や東電からの情報はまったく来ない。重度障がい者のための救助ヘリが来るというので、双葉高校のグラウンドへ連れて行った。その時、一号機が爆発しました。

 川俣町で最初のスクリーニングを受けました。何度も手と顔を洗わされましたが、ダメだったのです。検査官が希望する放射線量まで下がらなかったという意味です。
検査官に「着替えて下さい」と言われたが、着替えなど持っていない。上着を脱ぐことしかできない。10日間、放射能で汚染された服を着たままでした。

 原告(井戸川さん)・・・「猛烈な被ばくをしたそうですが、どうしてわかるのですか?」

 6月の町議会で、髪が薄くなったことを指摘されました。体毛がすべてなくなったのです。全身のだるさと疲れが酷く、色々な病院に行きました。耳下腺に腫瘍ができ、字も読めなくなりました。今も通院は欠かせず、一番心配なのは晩発性障害です。それなのに、被ばくに関する謝罪を受けたことが一度もありません。

 原告(井戸川さん)・・・原発事故によってどんな不利益を受けたか?

 すべてを失くしました。友をなくし、故郷をなくした。自分の家に入るのに、許可をもらわなくては入ることができないのです。

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 井上さんへの原告からの質問に対して、東電側の代理人は幾度か「誘導尋問です」と口を挟みました。そこに、詫びる姿勢はまったくありません。そして、井上さんに向けて「JR常磐線がすべて開通したのを知っていますか?」「双葉町に公営住宅や新庁舎が出来たのを知っていますか?」などの質問を続けました。「不利益ばかりでなく、利益もあったでしょう」と言いたいのは明らかでした。
「まもなく国際会議が開催できるホールが完成することを知っていますか?」と聞かれたとき、井上さんは語気を強めて応えました。「もちろん知っています。私なら作らせない。現地を知っているから」。


 
 賠償について聞かれ、井上さんは「今の賠償は20分の一でしかない」と答えました。「20mシーベルトで住民を住むことが出来るということが賠償額の前提になっているが、納得いかない。私が住みたいのは一ミリシーベルト以下の双葉町なのです」と、きっぱり言いました。
 すべての双葉町民の気持ちを代弁する証言だったと私は思います。

 もっと沢山の双葉の人たちに、井上さんの証言を聞いて欲しかった。それが叶わなかったことが、原発事故がもたらした悲劇だと思えてなりません。

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 午後は原告への本人尋問が行われました。事故当時、双葉町長であり災害対策本部長でもあった井戸川さんは、国と東電に嘘をつかれたために、町民の命や財産を守ることができなかったと主張し続けています。情報はすべて隠され、防災訓練マニュアルは絵に描いた餅だった。その後も国の基準の20倍以上で避難指示解除され、住民が無用な被ばくを強いられていることの違法性を訴えてきたのです。

 まず、裁判官から3月11日の行動を聞かれました。被害状況を確認するために奔走していたが、十条通報、十五条通報をファックスで受け取ったのみ。一号機のベントも10キロ圏内の避難指示も、国から伝えられたことはなかったと話しました。

 しかし、国と東電の代理人は、本筋に関わる質問を徹底して避けたのです。その代わりに、井戸川さんが興した水道会社「マルイ」や家族のこと、家賃が無料であることなどを言わせて、避難後の生活も不足がないような印象操作をしました。そして、井戸川さんが不信任決議を受け、町長を辞めるに至った原因を聞いてきました。井戸川さんは「自分の名誉にかかわること。簡単には答えられない」と返しました。

 住民からすべてを奪った加害者が、居丈高に被害者を追及しているのを、私は目の当たりにしました。被害者はこうやって加害者にさせられてきたのだと思います。
けれど、井戸川さんは堂々としていました。裁判長が「座って話していいですよ」と言っても、傍聴席に声が届くようにと終始立ち上がって陳述しました。この場にいる人の記憶にとどめてもらえるように。そう願っていたに違いありません。

 井戸川さんはよく「私を反面教師にしてくれ」と言います。それは、国も東電も真実を隠す、嘘をつくのを見抜けなかったことを指しています。すべての双葉郡の首長が共有化すべき悔しさを、井戸川さんはたった1人、背負ってきたのです。

 原発事故の責任を問う十年に及ぶ裁判。原発事故の歴史に何が刻まれるのか見届けたいと思います。
 結審は来年2月5日。判決は7月30日に言い渡されます。

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第五回「双葉の会」を開催します

今年の一月から隔月で始まった「双葉の会」も、好評のうちに5回目を迎えようとしています。
前回は、津波で流され一カ所に集めておいた墓石を町が処分してしまったこと、このことを福島の地元紙によって初めて知ったということが、双葉町民から出てきました。
大地震が全国各地を襲っています。地震の心配をする前に、原発の心配を。「大丈夫だ、動かすべきだ」と本気で思えますか?

第五回双葉の会では、原発事故当時、双葉町の町長だった井戸川克隆さんが、昨年12月に双葉町を訪ねた時の映像を上映します。
その他、美味しい料理や音楽も。
被災地ではなく避難先で、討論し交流する場です。初めての方もぜひご参加ください。

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第4回「双葉の会」を開催します

今年の一月から始まった、埼玉県加須市での交流会も四回目になります。初めての方も大歓迎。原発避難者の今を知るために、ぜひご参加ください。
車で来られる方は駐車スペースはたくさんあります。公共交通機関の方は駅まで送迎します。いずれにしてもご一報くださいね。

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双葉の会で能登の現状を話す

輪島市 朝市通りの焼け跡

珠洲市にある避難所に、加須市で作ったホウレンソウを届ける

今年の元旦、テレビに映し出された能登の惨状を観てからずっと、鵜沼さんは被災地に行きたいと言っていた。
五月の大型連休にその願いが叶い、私も同行させてもらうことになった。
第三回双葉の会では、映像を交えて被災地の報告をした。今回から埼玉県加須市の鵜沼さんの自宅敷地内にある倉庫が会場になり、30余名の人たちが参加した。

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私「志賀原発の前に立ったとき、どう思いましたか?」
久江「周りは隆起していたので、津波が来たけど大したことなくて済んだ。そして原発は動いていなかったので、運よく事故はまぬかれたと思う」。
そして「実はね、原発の前で写真を撮ったりしていたら、後からパトカーが追いかけてきて、私はじめて職務質問されたんですよ」
「だから言ってやったの。私は福島の被災者です。だから能登の人たちのことが気になってしかたないんですってね」
鵜沼さんは笑って言う。彼女はいつもそうだ。

私「双葉の人たちも13年前の震災のショックは大変なものだったと思う。能登の現地をみて、フラッシュバックしたりしませんでしたか?」
久江「私は皆さんの前で話をするとき、辛そうに話すのはやめようと思った。そうすると事実が伝えられないから。今の双葉町の現実の姿を知ってほしい。避難した人がどんな思いで生活しているか。そのために私は自分の感情は全部捨てた」

双葉町民の菅本章二さん

その後、二分間ずつ、参加した人たちに自分のことを語ってもらった。
双葉町から避難している菅本さんは「ぼくも双葉に一時帰宅するたび職務質問を受ける。警官に『うち、そこだけど一緒に行く?』って言うんだ」。菅本さんの家は、津波で跡形もない。昨年再建された八幡神社が、我が家の場所の目印になっている。

埼玉県内から初めて参加した男性は、能登の被災地の映像の感想を語った。「四ヶ月たったのにこの状況であることに驚いた。ここまで政府が何もしないことが今まであったか。この惨状をみたらボランティアや個人の努力で処理できるものではない」と声を震わせた。

話すのは苦手、という人もいる。でも、双葉の会は、自分の言葉でしゃべることに意味があるんだと思う。誰に何を言われたって構わないじゃないか。鵜沼さんは13年間の避難生活の中でそのことを学んだ。
どこまで強く、凄い人なのかと思う。双葉にいるのは沈黙する民ばかりではない。
そして、そこにこそ「復興」をはね返すような歴史が作られていくのだろう。

私はそれを見届け、記録する者として、鵜沼さんよりも長生きしなければ。

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