信ちゃんの12年

 知らない女性からメールをもらった。
「10年前のDVDを送ってほしいです。避難者の「彼」が出ていると聞いたので」

 「彼」とは小池信一さんのことだった。予告編に出ているのを見たそうだ。
その小池さん(私たちは信ちゃんと呼んでいた)が、つい最近亡くなったというのだ。
女性は信ちゃんと、結婚の約束をしていたという。


2011年8月 はじめて騎西高校で話をしてくれた小池信一さん

 信ちゃんは私が最初の頃に出会った双葉町民である。2011年の8月14日、日付まで覚えているのは、その日が騎西高校のグラウンドで行われた盆踊りの日だったからだ。
 準備でわさわさしている昇降口で、気さくに話をしてくれた。信ちゃんは私よりチョット若かったが、故郷の話をしみじみ語った。それまで故郷の話をするのは、高齢者の人が多かったので、比較的若い彼の口からその話が出てくるのは新鮮だった。「ちょっと待って、今の話、すっごくいい。撮らせてもらってもいいかな」という私に、彼はちょっと照れながらも、よどみなく思いを語ったのだった。

 両親はすでになく、兄弟もいない。長いこと大熊町の焼肉屋で働いて、そこの社長さんに良くしてもらったというが、その人とも離れ離れになって、たった一人騎西高校にやってきた。
 「生まれたところで死にたいナ。生まれたとこでナ。生まれたところで変えたいナ。それはできないと思うけどネ」
 それから何度か、話を聞かせてもらったが、彼の故郷への思いは格段のものがあった

 そのころ、同じく双葉町から避難した書家である渡部翠峰先生が、騎西高校の中に書道教室を開いた。信ちゃんと私は生徒になり、机を並べるようになった。およそ書道とは無縁だった彼が、誰よりも熱心に通うようになった。
 故郷への思いは断ち切れるものではなかったが、放射能がゼロになるまで俺は帰らないよと言った。だからここで、仕事をみつけて頑張るんだと。そんな信ちゃんに、仕事はなかなか見つからなかった。

 事故からちょうど一年経った頃、原発事故の記憶は生々しいのに、再稼働の動きが出てきていた。私は信ちゃんを、首相官邸前の集会に誘った。何人かがマイクを握って演説していたが、避難者の信ちゃんに、何かしゃべってほしいと思った。案の定、彼は「何しゃべれっていうんだ」と照れていた。そりゃあそうだ。彼がマイクを握るなんてこと、カラオケ以外ではなかっただろうから。

 ところが、私がトイレに行っている間に、マイクで喋り始めていたのだ。驚いて夢中でカメラの録画ボタンを押した。「俺たちは故郷をなくされた」と彼は言った。頑張るしかないという彼に「どうすることが頑張るってことなの?」と聞いたことがある。「故郷には帰れない。でも、いつか帰るんだっていう希望をなくさないってことだナ」。そう信ちゃんは答えた。

 その後、信ちゃんは仕事が忙しくなり、ほとんど会うこともなくなっていた。ふと何年か前、電話をくれたことがある。持病が悪化して足の指を切断したと、とても辛いと言っていたのに、私は会いに行くことが出来なかった。
 そしてまた何年か過ぎ、信ちゃんの訃報を知った。

 知らせてくれたHさんによると、信ちゃんは足を切断し、加須市のアパートを引き払って施設に入っていたそうだ。そこの介護職員だったHさんと、信ちゃんは恋に落ちた。信ちゃんは、きついリハビリにも前向きに頑張ったという。Hさんを幸せにしたいと思う気持ちが、彼に生きる力を与えたのだ。
 それなのに、あまりにも突然、信ちゃんは逝ってしまった。

 「昔の信ちゃんが知りたい」というHさんに、撮りためた映像を送った。時を経て見る信ちゃんの映像は、私にも多くのことを思い起こさせてくれた。Hさんには双葉町のことはあまり話さなかったようだ。それでもHさんは信ちゃんの人生が、我慢の連続だったことを知っている。何よりHさんが「信ちゃんが歩いてる姿、初めて見た!」と言ったとき、何だかもう、こちらは胸がいっぱいになってしまった。

Hさんにお墓を案内してもらう

 「生まれたところで死にたい」と言ってた信ちゃんは、故郷から遠く離れた埼玉の、騎西高校から車で20分ほどのお寺に埋葬されている。焼き肉屋の社長さんが、荼毘に付してくれたそうだ。
 55歳。短いかもしれないけれど、避難しても病気になっても、諦めることなく、愛する人を見つけた信ちゃんは偉かったと私は思っている。

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避難指示解除から1年~テレビに映らない双葉町

 双葉町に人が住めるようになって一年になる。

 昨年10月1日。双葉駅の西側にはモダンな復興住宅がオープンし、今も増設が続いている。
 ここに、一早く入居した松浦トミ子さん(87)がいる。「病院もない、店もないのに、本当に双葉に帰るつもりなのか」という周囲の言葉にも「そんなの覚悟の上だ」と言い切った。

松浦トミ子さん

 松浦さんの自宅は、まだ避難指示が解除になっていない。自分の家に住むことはできないが、それでも双葉の空気はいいという。暑さで窓を開け放していると、工事による砂埃が入ってくるが「いちいち文句言っても仕方ないでしょ。働いてる人だって大変なんだから」
 我慢強い松浦さんだが、ひとつだけガマンできないのは、お墓に行くにも事前申請が必要だということだ。親戚が大勢墓参りに来た時に、一人だけ申請漏れがあり、入れなかったことが悔しかったという。「せっかく双葉に帰って来たのに、墓参りも自由にできないとは」

 避難指示が解除されたといっても、町全体の面積の15%。そのうち、津波の被害を受けた中野中浜地区では先行的に解除が進められ、宿泊はできないものの、伝承館や産業交流センター、企業、ビジネスホテルが次々と作られていた。駅から2キロほど離れたこの空間は、テレビにもたびたび映し出され、さながらテーマパークのようだ。

ビジネスホテルと入浴施設

次々と誘致される企業は20社以上

伝承館脇でビアパーティー

 その一方、双葉町の大半(85%)は「帰還困難区域」だ。中間貯蔵施設に隣接する細谷地区にある、鵜沼久江さんの家を訪ねた。ここも、申請を出さなければ入ることができない。除染も解体も進まず、12年前のまま。ただ朽ち果てるのを待つのみか。
 鵜沼さんは50頭の牛を飼っていた。牛舎には牛糞が厚い層をなしていたが、随分薄くなっていた。一度も除染をしていないのに、放射線量は随分下がっている。「風に吹かれて、飛ばされたんだと思うよ」と鵜沼さん。

 選ばれた箱庭みたいなだけが「明るい復興」を演出している。そう思えてならないのだ。

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双葉盆歌を聴きながら

7月15日、双葉の盆踊りが13年ぶりに双葉町で行われました。

夕方五時、双葉駅前広場。

先祖の供養のために長く歌い踊り継がれてきた「双葉盆歌」は、全国に散り散りになった双葉の人たちが、避難先でも続けてきた伝統芸能です。私は埼玉県加須市で毎年のように盆歌を聴いてきました。2011年の8月14日、双葉町民が騎西の人達との交流を兼ねて、旧騎西高校のグラウンドで開催された盆踊りは、今も忘れることが出来ません。避難先ではじめて、双葉町の人たちが主体となり、自分らしさを披露することが出来たのではないか。そう感じたからです。普段はあまり交流のなかった地元加須市の人達も、この日はグラウンドに来て、一緒に盆踊りを楽しんでいました。あれから12年たち、双葉は「帰れる町」になりました。

双葉町には集落ごとに太鼓や笛や歌い手の名手がいます。途切れることなく盆歌をつなぐ「櫓の共演」のことを、私は2019年に公開された映画『盆歌』(中江裕司監督)で知りました。映画の中では、仮設住宅のあったいわき市南台で「櫓の共演」のシーンが撮影されていましたが、圧巻でした。いつか双葉町で実現することができるのだろうかと思っていましたが、この日ついに双葉駅前で、長塚地区をはじめ6地区による櫓の共演が行われたのでした。映画の主人公でもある、せんだん太鼓のリーダー横山久勝さんも、この日、避難先の本宮町から双葉駅前にやってきました。

映画『盆歌』より

横山久勝さん

主催した木幡昌也さん

主催した「未来双葉会」の木幡昌也さんのかけ声で始まった盆踊り。およそ二時間半、途切れることなく双葉盆歌がつづきます。久しぶりに会う双葉町民は「涙が出そう」「避難してから今まで、無我夢中だった。今日やっと『懐かしい』という感情が湧いた」と感慨深そうでした。「やぐらの共演は、もっと激しくてね。櫓から落っこちる人もいたのよ」と教えてくれる人もいました。

横山久勝さん

横山久勝さんに話を聞きました。
私「盆歌の映画で観た『櫓の共演』は激しかったですよね」
横山「そうだね。テンション上がるまでには長い時間が必要。暗くなって来ないとテンション上がらないんだよね」

仲間たちと一緒に太鼓の練習をすることも難しくなっていますが、それでも横山さんは太鼓を叩く体力だけは維持しようと努力しているそうです。

「双葉でやれるようになったといっても、昔の双葉駅と違う。今日ここにいるのは双葉の人よりもよそから来た人の方が多いけれど、・・・そういうふうになっていくんでしょうね。よそから来た人でも、教えて欲しいという人がいたら教えるから、引き継いでほしいよね」

   浴衣姿や子どもたちも大勢集まり、櫓を囲みます。何人かの人に話を聞いてみました。東京から来たという18歳の女性は、大学に入ったのを機に、東日本大震災の被災地を旅しているが、双葉町が一番きれいで好きだと言います。復興後の明るさを、いつか表現してみたいのだと。・・・

そうなのか。あの震災と原発事故のとき6歳だった彼女にとって、双葉町が背負ったものは過去のことなのだ。胸が詰まりました。帰れる町になったというのに、なぜ町の人たちの多くは帰って来ないのか。12年間この町の人たちはどうやって暮らしてきたのか。物事には光と影の両方があるけれど、影の部分にも目を向けてねと、彼女にそう言うのが精一杯でした。

今、双葉町を見学する大学生も増えています。彼らの目に、双葉町はどんなふうに映るだろう。原発のある双葉町。その歴史は、まだ終わっていません。原発事故はまだ収束していないのだということを、忘れてはいけない。放射能が降り注いだ大地。その上につくられた「復興」の脆さを感じながら、この駅に降り立つ必要があるのだと思います。

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元気農園での一コマ

 元気農園は、埼玉県に避難した双葉町民が、地元の人から借りた畑で野菜を作っていて、もう12年になります。
双葉にいたころ、畑作業は大半の人たちにとって当たり前。避難先でも小さな庭で野菜を育てる人は少なくないのですが、こんなふうに皆で集まれる畑があるのはいいことです。

 七月に入って間もない日曜。炎天下の中、キュウリが大量に育っていました。隣りのピーマンと比べてみれば、どれだけ大きいか、わかるでしょう。

 自転車で通りかかった地元のおじさんが「ずいぶんでっかいキュウリだなー」と声をかけてきます。
 口が達者な双葉町のFさんが返します。「スーパーで売ってるような細いキュウリは、うちの畑では作ってねえんだよ!」
 そんなやり取りにゲラゲラ笑っていたら、なんと私の車いっぱいに、オバケキュウリが積み込まれているではありませんか。Fさんの仕業だな。どうしよう・・・。

 キュウリ、ナス、ピーマン、シシトウ、ジャガイモ・・・天候不良で不作だと言いながらも、野菜たちは逞しく育ちます。これを販売できればよいのですが難しく、双葉の人たちが分け合ったり、ご近所に配ったりしているのですが、人手が足りません。12年の間に、畑に集まる人が減ってきたからです。

 埼玉の夏は、双葉の夏に比べると、えらく暑いといいます。汗だくになって作業を終えた皆と、持ち寄った漬物やお菓子を食べ食べ、たわいのない話が始まりました。

 「双葉の人は何だってまあ癌になる人が多いから。私ら避難してくるときに、たくさん浴びたんだと思うよ」
 「スクリーニングの時、あんまりに線量が高いから『原発で働いてたのか?』と聞かれた。俺は原発で働いたことなんてないよ」

 「最初の頃、一時帰宅でバスに乗って双葉に行くとき、線量計を身につけさせられたけど、えらく数値が高かった。もっとも双葉の人たちは、自分の家がどうなってるかしか考えてないから、放射線量なんて気にする余裕もなかったけどね。それから一年くらいしたら、線量計の単位がμ㏜からm㏜に変わってて、ほとんどゼロになったんだ。そんなことに気が付いた町民は、ほとんどいないけどね」

 「私たち、こういうとこで、こうやって話すしかないんだよ」

 「ガンと原発事故との因果関係はない」。甲状腺がんになった10代の若者に、医者はこう釘をさしたそうです。かけがえのない声が、権威によって潰されないように、小さな声を集めていきたいと思います。

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 ところで、問題のキュウリはどうなったでしょう。翌日、遠路はるばる浪江町の希望の牧場に届けました。
 牛たちの口に合うといいなあ。

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復活の碑

 日本の快水浴場百選に入る双葉海水浴場、浜野地区。浪江町の請戸に隣接するこの地域は、あの日、大津波にのみ込まれ、亡くなったり行方不明になった人が16名いる。
 この地区にある中浜八幡神社も流されたが、住民の強い願いによって2021年に再建された。

 そして6月4日。神社の前に『復活』の文字が刻まれた石碑が建ち、除幕式が行われた。梅雨の入口のこの日は、朝から見事に晴れ渡っていた。
 集まったのは、この集落の人たち、石碑づくりに協力した人、取材陣ら40人ほど。津波の犠牲者に黙とうをささげた。

 「復興が計画通りに進んだと実感できる。感謝申し上げる」という町長の言葉が代読された。この一帯は、家が跡形もなく流されたというのに、双葉町の中で最も放射線量が低く、いち早く立ち入りを許可されるようになった。企業の誘致がいち早く進み、伝承館やビジネスホテル、温泉施設までできた。地図は塗り替わったのだ。
 これらをみるたびに、復興とは何だろうかと思わずにはいられなくなる。ヨソモノの感傷にすぎないのだろうか。

 黒御影(くろみかげ)の石碑の裏の文字を揮毫しながら涙したと、加須市に避難している双葉町民の書家、渡部翠峰さんは挨拶で語った。中浜行政区長、高倉伊助さんの妻、さだ子さんが考えた文章だ。
 中浜で生まれ育ち、福島県須賀川市で避難生活を続ける高倉さんは、真っ黒に日焼けしていて67歳とは思えないほど若々しい。「みんなが協力し合い、結束した地区だったナ。それから負けず嫌い。俺たちは浪江町の請戸小に通ってた」 「双葉町の9割は手付かずなんです。我々の地区は「動ける一割」に当たるが、戻ってくることは不可能。帰れる場所じゃないね。でも、動ける場所だから動いて、できることで世話になった人たちに恩返ししなければね」と言う。
 石碑の隣にある「あずまや」は、ここを訪ねた人が世間話でもしてくれたらと思って建てたのだそうだ。

 津波で母親を目の前で亡くし、命からがら生きのびた菅本章二さんも、除幕式に参加していた。「今は原っぱだけど、ここは全部家だったんだよ。石碑が出来て、自分の家の目印ができてよかった」と満足そうだった。八幡神社の思い出を聞くと「夏休みとか、ここで同級生と勉強したんだ」という。神社を囲む竹林に風が吹き、さわさわと心地よかった。

『復活を願い』
 ここ浜野地区は、阿武隈の山並みを背に広がる、素晴らしい田園地帯であった。風光明媚で志木の色調変化の見事さは、自然とのつながりがみせる技といえる。
 2011年3月の東日本大震災により、14名の大切な命を亡くし、未だ全戸避難に至っている。
 このようなことが二度と起こらないことを祈るばかりである。
 災害時の注意喚起や勧告には素直に耳を傾け、命最優先の行動をとってほしい。
 いずれまたこの地に人々が根を下ろすだろう。
 自然と共に生き生きと息づく姿を思い描き、「復活」を願う記念碑を、ここに建立する。

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いのちについて 小出裕章さんが書いていたこと

レイバーネットТVのスタジオ

 4月12日、レイバーネットTVで元京都大学原子炉実験所の小出裕章さんをお呼びし、「原発回帰ホントにいいの?」という特集を放送した。

 レイバーネットTV放送はこちら

 国が避難指示を出した区域が、12年の間に次々と解除になり、人が戻されている。しかし、放射能は事故前に戻ったわけではない。
 かつて小出さんが、被ばくの対価としての報酬をもらって仕事をした放射線量と同じ基準で、子どもを含む人々が生活させられている。これは棄民政策だと小出さんは語った。
 福島第一原発が今どういう状況なのか、なぜ汚染水を海に流そうとしているのか、そして、事故の責任をとらないどころか人々を欺き、原発政策に大きく舵を切るこの政治下で、自分がどう生きようとしているのか。死生観にまで踏み込んだ話は、すでに講演や著書で小出さんを知っていた私も、強く心を揺さぶられるものだった。放送は大きな反響があり、たくさんの感想が寄せられている。

小出裕章さん

 小出さんは「こうすべきだ」とは言わず「私はこう思う」と言う。人は一人一人生きていて、違った人間たちだ。さまざまな人たちから、よくも悪くも影響を受ける中で、自分の生き方を決め、それに誠実に生きることしかない。限られた短い人生、それで十分なのかもしれない。

 驚いたことに放送終了後、小出さんがスタッフ宛にメールを下さった。そこに「レイバーネットTVでは、原子力や福島事故のことだけでなく、子どものことまで口にしてしまい、余計なことだったと反省しています。でも、生き方そのものについてお受け止めくださったようで、感謝します」という一文と共に、1990年に書いた文章が添付されていた。
 これは小出さんの著書「放射能汚染の現実を超えて」(北斗出版、河出書房新社)におさめられているものだが、ふたたび多くの方々に触れてもらいたいと思い、ご本人の許可を得た上でここに紹介する。

 私はこの文章に、今とても勇気づけられている。

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生命の尊厳と反原発運動

【人類は自ら蒔いた種で、遠からず絶滅する】
 五十億年近いといわれる地球の歴史の中で、人類といえる生物種が発生したのはわずか数百万年前のことである。その人類は自らの生物種が属する類を、「霊長類」と名づけ、そして自らのことを「万物の霊長」と名づけている。しかし、人類の種としての絶滅は、いまやはっきりと目に見えるようになってきた。

 過去二〇〇年ほどの間に科学技術は急激に進展し、浪費も拡大した。その歴史は、人類の種としての生存がそれほど長く続かないことを示している。核戦争、原発事故による放射能汚染、その他の化学物質による汚染、資源やエネルギーの浪費による環境の破壊、それらのいずれもが人類の絶滅をもたらす力を持っている。何が決定的な絶滅の要因になるかは断定できない。しかし、人類の生存可能環境を人類自らが失わせるまでに、どんなに長くとも一〇〇年あるいは千年の単位であることは疑えない。結局、人類の今後の生存期間は、数百万年という過去の生存期間からみれば、いずれにしても誤差の範囲でしかない。

 中世代に地球を征服していたといわれる恐竜は、ある時期に突如として地球から姿を消した。「万物の霊長」たる人類からみれば、巨大であっても、まことに頭の悪い野蛮な動物であったというのが一般の見方であろう。しかし、その恐竜たちは一億年にわたって種を維持していたのである。恐竜の絶滅の原因については現在でもさまざまな議論が続いている。それを、宇宙からの巨大な隕石落下に求める説もあるし、進化の過程で巨大化しすぎ自らの生命体を維持できなくなったためとする説もある。しかし、恐竜からみれば、いずれにしても万やむを得ない過程を経て絶滅にいたったのである。それに比べ、人類の絶滅の決定的な要因は、人類が自ら蒔いた種によるのである。まことに自業自得というべきであるし、人類は恐竜以上に愚かな生物種であったというべきだろう。

【人類が絶滅しても、地球は新たな生命を育くむ】
 現在世界には一万七〇〇〇メガトン、広島の原爆に換算すれば、一四〇万発分の核兵器が存在している。それが一挙に使用されることになれば、ほとんどの人々が即死、あるいは短期日のうちに死亡する。また、かりに直撃を受けず生き残っても、訪れた「核の冬」のもとで、じわじわと生命をむしばまれていく。複雑な遺伝情報をもった人類が、放射能汚染のもとで種として生き延びることも、できそうにない。

 一九七九年に米国のスリーマイル島原子力発電所で大きな事故が起こった。当初、原子力推進派は原子炉の心臓部である炉心は熔けていなかったと主張していた。ところが最近では、炉心の約半分が熔けてしまっていたこと、最後の砦である圧力容器にもひび割れが入っていたことなどが明らかになってきた。その原発の安全担当者は「何が起こっているのか、もしあの時運転員に分かっていたら、彼らはあわてて逃げ出していただろう」と、事故後七年半を経て語っているのである。まことに原子力発電の事故は、人知をこえて展開するのである。しかし、この事故の調査の過程で、一般には知られていない、そして、はるかに重要で驚くべき事実が明らかになった。

 圧力容器の蓋があけられ、水底深く沈んでいる破壊された燃料の取り出し作業が始まった。しかし、作業を始めたとたんに、うごめく物体によって中が見えなくなってしまったのである。そこは、人間であればおそらく一分以内で死んでしまうほど強烈な放射線が飛び交っている場所である。「さながら夏の腐った池のようだった」と作業員が報告したその物体とは、なんと生きものであった。単細胞の微生物から、バクテリア、菌類、そしてワカメのような藻類までが、炉心の中に増殖し繁茂していたのである。それを発見した作業員の驚きと、戦慄は察して余りある。結局、作業を進行させるために、過酸化水素(薬局ではオキシドールとして売っている殺菌剤)を投入して、その生きものは殺される。しかし、一度殺されたはずのその生きものは驚異的な生命力で再三再四復活し、以降何ヵ月にもわたって、作業の妨害を続けるのである。人間からみれば、ぞっとするほどの恐ろしさである。しかし、どんなに強い放射能汚染があっても、新しく生命を育む生きものたちが存在していたのである。生命は、人間の想像をはるかにこえてたくましかった。

 しょせん人類などは宇宙や地球の大きさや広さからすれば、まったくとるに足らないものでしかない。人類がこの地球上から絶滅しても、宇宙の運行はまったく変わらずに続くに違いない。また、人類が自らのものと錯覚してきた地球も、人類がいなくなったところで、何事もなかったかのように、また生命を育むのである。地球上には五〇〇万種とも一千万種ともいわれる生物種がそれぞれの生活を営んできた。人類はこれまでにも、それらのうちの数多くの生物種を絶滅に追い込んできた。そして、自らの絶滅の過程においてもまた、多くの生物種を巻き添えにする。そのことはまことに申し訳ないことだと思う。しかし、人類という生物種がいなくなった地球は、生き残った、あるいは新たに生まれた生きものたちにとって、今日よりももっともっと住みやすいに違いない。

【反原発の根拠】
 すでに四年の歳月を経てしまったソ連のチェルノブイリ原子力発電所の事故以降、世界各国において原子力に反対する運動が高揚した。そして、日本というこの国においても、多くの人たちが、事故の恐怖を理由に立ち上がった。およそすべての運動は、抑えても抑えても内部から沸き上がってくる要求に突き上げられた時に、はじめて力を得るものである。反原発運動の高揚も、そのような力に突き上げられたものであると思う。しかし、運動の展開の中で、私にはどうしても受け入れられない動きもあった。そのもっとも端的なものは、汚染の強いソ連やヨーロッパの食べものを日本国内に入れるなと、行政に規制強化を要請する運動である。

 人類は、他の生きものたちとの比較でいえば高い知能をもった生物としてこの地球上に現れた。その結果、自らを絶滅させるに足る程度には、さまざまな知識や技術を蓄えてきた。しかし、ごく当たり前のこととして、人類にはできないことも無数にある。たとえば、原爆や原子炉によって人類は放射能を生み出すことはできるようになったが、一度生み出してしまった放射能を消すことができない。チェルノブイリの事故で、人類の生活環境にまき散らされた放射能の量は、広島の原爆がまき散らしたそれに比べて、千五百倍にもなるのである。また、人類には時間をもとに戻すこともできない。もし私に時間をもとに戻す力があれば、なんとしても四年だけもとに戻し、チェルノブイリの事故がなかったことにしたい。しかし、できないのである。時間を元に戻せない以上、私たちは汚れた環境の中で汚れた食べものを食べながら生きる以外にすべがない。

 放射能は人間の手でなくすことができない。煮ても、焼いてもなくならない。日本国内に入ることを阻止できたとしても、当然、放射能はなくならない。放射能で汚染した食べものもなくならない。日本と日本人が拒否した食べものは、他のどこかで、他の誰かが食べることになるだけである。どこで、誰で食べることになるのか、想像してみてほしい。私には、それが原子力の恩恵など一切受けず、そして飢えに苦しむ第三世界であり、そこに住む人々であることを疑えない。一方、日本とは、現在三十八基もの原子力発電所を利用し、世界でももっともぜいたくを尽くしている国である。そして、その日本は世界がいっせいに原子力から撤退しようとしている今もなお、先頭になって原子力を推進すると宣言している国なのである。

 現在世界には約五十億の人間が住んでいる。それを四つのグループに分けて考えよう。そのうちのもっともぜいたくなグループは、いわゆる「先進国」と呼ばれる国々である。幸か不幸か日本もその中に入っている。そのグループは世界全体で使うエネルギーの八割を奪い去り、使ってしまう。次のグループはいわゆる「開発途上国」であり、残されたエネルギーのうちの六割(全体のうちでは約十二%)を使う。残されたグループはいわゆる「第三世界」に相当するが、その中でもエネルギーの取りあいがあって、もっとも分け前の少ないグループ、「極貧の第三世界」は全体の二%のエネルギーも使うことができない。彼らの中には飢えが広がり、現在二秒に一人づつ子供たちが餓死しているというのである。日本に住む私たちには自分の子供たちが餓死していくということは、ほとんど想像すらできない。しかし、できるかぎりの想像力を働かせて想像してみてほしい。自分の目の前で、自分の子供たちが「餓死」していく姿を。

 餓死していく子供たちとそれを見つめる以外にない親たちを、私たち日本人は「かわいそう」というべきでない。なぜなら、子供たちを餓死に追い込んでいるのは、不公平をかぎりなく拡大させてきた「先進国」であるのだし、その中で、「豊か」で「平和」な世界を満喫してきた他ならぬ私たち自身なのである。

【生き方の中にこそ生命の尊厳はある】
 人類はいずれ絶滅する。生物として当然のことである。恐れるべきことでもないし、避けられることでもない。それと同じように、一人ひとりの人間も、どんなに死を恐れ、死を回避しようとしても、いずれ死ぬ。一人の人間など、ある時たまたま生を受け、そしてある時たまたま自然の中に戻るだけである。人間の物理的な生命、あるいは生物体としての生命に尊厳があるとは、私は露ほどにも思わない。もし人間の生命に尊厳があるとすれば、生命あるかぎりその一瞬一瞬を、他の生命と向き合って、いかに生きるかという生き方の中に、それはある。

 原子力に反対して活動している人たちの大きな根拠の一つに「いのちが大事」ということがある。しかし、「いのちが大事」ということだけなら、原子力を推進している人たちにしても否定しないだろう。決定的に大切なことは、「自分のいのちが大事」であると思うときには、「他者のいのちも大事」であることを心に刻んでおくことである。自らが蒔いた種で自らが滅びるのであれば、繰り返すことになるが、単に自業自得のことにすぎない。問題は、自らに責任のある毒を、その毒に責任のない人々に押しつけながら自分の生命を守ったとしても、そのような生命は生きるに値するかどうかということである。

 私が原子力に反対しているのは、事故で自分が被害を受けることが恐いからではない。ここで詳しく述べる誌面もないし、その必要もないと思うが、原子力とは徹底的に他者の搾取と抑圧の上になりたつものである。その姿に私は反対しているのである。

 もちろん私も放射能など決して食べたくない。しかし、私たちは自ら選択したか否かにかかわらず、少なくとも現在日本というこの国に住み、原子力の電気をも利用している人間である。現に原子力の恩恵を受けている私たちが、結果としてであれ、汚染だけを第三世界の人々に押しつけることになる選択をすることは、原子力を廃絶する道とは相いれない。今日存在している多様な課題を乗り越えるための唯一の道は、それらの一つひとつと取り組んでいる多様な運動が、根元的な地平で連帯することである。その連帯を可能とする原則だけは、なんとしても守り抜かなければならない。

 ソ連やヨーロッパの汚染食料については、日本国内にどんどん入れるべきである。その上で、いかにすれば自らの責任を少しでもはたし、責任のない人たちに少しでも犠牲をしわ寄せしないですむかを考えること、そして現実の中で一つひとつ選択することこそ、いま私たち日本人に求められている。私は、日本の子供も含め世界中の子供たちに汚染食料を食べさせたくない。しかし、私自身はこの日本という国に生きる大人として、それなりの汚染を受ける責任があると思っている。チェルノブイリ事故後、私は敢えて汚染食料を避けない生活を続けてきた。今後もそのつもりである。そうすることで、現実の汚染が消えるわけではないし、世界の差別全体が解消されるわけでもない。当然、私の苦悩が消えるわけでもない。世界に苦悩があるかぎり、個人の苦悩が消えることなどありえない。世界がかかえる問題に向き合って、いわれない犠牲を他者に押しつけずにすむような社会を作り出すためにこそ、私の生命は使いたい。そして、そのような社会が作り出せたその時に、原子力は必然的に廃絶されるのである。

(一九九〇・二・二十六) 小出 裕章

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「福島にだけ負担を押し付けるな」という欺瞞


  • 福島第一原発事故で出た放射能を含む汚染土壌を再利用する。その実証実験を計画が浮上している。
    昨年末、東京・新宿御苑や埼玉県所沢市がその候補地に挙げられたことがわかった。再利用できる基準は8000㏃/㎏以下。住民が不安に思うのは当然だ。
    しかし環境省はきちんとした説明を行うことはなかった。地元の人たちの大半が、テレビや新聞でみて驚いたという。

 

 

 集中管理しておかなければならない汚染土を、なぜばらまくようなことをするのか。
さっそく住民は立ち上がり、環境省や自治体への申し入れ、住民を集めての学習会が行われた。
新宿御苑は子どもたち、外国人、そして野宿者と多くの人たちの憩いの場所だ。そこにあえて汚染土を持ち込み、花を植えるという。
一月下旬、新宿御苑にやってきた人たちにスタンディングで訴えると、皆驚いていた。

1月下旬 新宿御苑前でスタンディング

 

 

 

 

 

 

 

所沢市では保育園の間近が候補地だ。市長はそのことをわかって了解したのか。上から言われたことは決定事項として受け入れることしかできないのか。
問いかける市民を前に、所沢市長は「住民の意向を尊重する」とした上で「福島の人にだけ負担をおしつけるわけにはいかない」と言ったそうだ。

所沢市小手指公民館に集まった人々

福島の人たちは、汚染土の拡散をどう思っているのか。2月24日、所沢市の公民館で満田夏花さんの学習会が開催された。そこに集まった100名の住民を前に、鵜沼久江さんが訴えた。鵜沼さんは原発の間近で暮らし、中間貯蔵施設に土地の一部を提供した双葉町民だ。

 

所沢市民にエールを送る鵜沼久江さん

 

 

 

「環境省は『地権者の意見は聞きましたよ』といいますが、何を言っても聞いてくれたことはありません。中間貯蔵施設のために土地を提供した人は皆、同じ意見だと思います。地元のお前たちが責任をとれといわれ、原発の近くに土地があるから、核のゴミはここで引き受けるしかないと覚悟したんです。それなのに、これからあちこちに持って行って実証試験。とんでもないことです。国は勝手すぎますよ。地権者の意見を聞くでもなく勝手に決めて、汚染土を置かれたらもう帰れないと覚悟して、私たちは(中間貯蔵施設を)了承したんです。

「30年たったらもとに戻すなんていいますけど、これも上から決めたこと。私たちは30年たったらどこかへ持って行ってくれなんて言いませんでした。中間施設では汚染土を置いて、数年後に盛り土をしました。下に貯まった土は除染したわけではなく、そのまんまです。ですから30年後に土地を返されたとしても、そのあとどうしたらいいのかわかりません。30年後、娘は70歳、孫は40歳。返されても困ります。

「所沢市長に今日はお会いしたかった。福島では放射能問題でどれだけ苦労させられたか。子どもたちは虐められましたね。大人たちは会社に行けなくなりました。そんなに簡単に物事を引き受けないでください。中間貯蔵施設を受け入れて、双葉町長や双葉町議はどれだけ賄賂を貰ったんだろうって話になっています。所沢にはどれだけのお金が動いたんだろうねって、そう言われますよ

「もし所沢が引き受けるようになったら、汚染土は全国に持っていかれます。どんなことをしてでも反対してください。私たちは持っていけとは言いませんから。絶対に頑張ってほしい」

鵜沼さんの話の後、会場からは次々と手があがった。福島のことは他人事でなく、自分の問題になったという声もあった。「所沢の住民は本当に頑張らなければ未来がなくなってしまう」そう泣きながら訴える人もいた。

原発に絡むすべてのことが、住民の声を無視して勝手に進められてきた。そして住民には分断という現実ばかりが遺された。今こそ、終止符を打たなければ。

福島の人たちと連帯して、何としても汚染土の拡散を止めたいと思う。

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「汚染水海洋放出反対!福島の未来を守れ!」浪江町の漁港でエールを送る

請戸漁港

2023年のはじまりに、私は福島県浪江町の請戸(うけど)を訪れた。今年は、福島第一原発からの汚染水が、海に放出されようとしている。請戸漁港は福島第一原発から6キロ。影響は計り知れない。

1月2日朝8時。たくさんの人が海の安全と豊漁を願い、出初式に集まっていた。
神事の後、吉田栄光・浪江町長が「処理水の大量放出など大きな課題に直面しているが、請戸ブランドを後世に残したい。全国に避難している浪江町民が請戸の鮮魚を口にし、町の人口が増えていくよう、漁業に期待している」とあいさつした。

船が出港していくのに合わせて「軍艦マーチ」が流れた。その音楽に入り混じるように聞こえてきたのが「ゴジラのテーマ」、そして聞き覚えのある、あの声だ。
「浪江の人たちは、これからも海の魚を買って食べるだろう。それなのに、汚染水を放出していいのか。汚染水は安全安心だという嘘っぱちの宣伝に、黙っているわけにはいかない!」
浪江町の牧場主、吉沢正巳さんが訴えていた。
「1980年、請戸のホッキにコバルト60が見つかり大問題になった。浜通りのホッキは売れなくなって、5億円の賠償が出た。そんなことをまたくりかえすのか」
「漁師の皆さんも一緒に頑張ろう!これからも福島の魚が食えるように、俺たちも応援します。放射能汚染の魚が出ないように、みんなで力を合わせようじゃないか」

浪江町「希望の牧場」の吉沢正巳さん

郡山市などから集まった人たちと一緒に

かつては150層の漁船、民宿もあって賑やかだった漁場である。2011年3月11日に津波が押し寄せ、たくさんの人が犠牲になった。波が引けて消防団が救出しようにも、原発事故によって立ち入り禁止になり、助けを求める声が聞こえても助けに行けなかった。その無念を忘れていいのか。

汚染水を放出するための海底トンネルが、1キロの長さに延びているのが見える。海底から泉のように湧き上がる状態にし、どこが汚染水の出口かわからないようにするのだろうと、吉沢さんはいう。責任の所在を曖昧にしてきたことが、ここにも貫かれている。

崖の先端から一キロにわたって海底トンネル工事が進む。今年の夏に、汚染水が流される予定になっている。

浪江町の議会では、放出反対の決議が上がっているそうだ。でも、漁協では声をあげられない。「原発まぶりだ」と吉沢さんはいう。
「まぶりって何ですか?」と聞くと、寒いから囲炉裏にあたって暖をとることを「まぶる」というのだそうだ。「原発にまぶって、おいしくなるのを待ち望む、そんな精神構造の地域になってしまったんだ」

北茨城の大津漁港では、100ベクレルを超えたシラウオの加工品が販売されていたことを、漁協の職員二名が内部告発した。その人たちは解雇されたが、解雇撤回の裁判を起こしたのだと、吉沢さんは教えてくれた。

当たり前のことを言う、地元で声をあげる、当事者が闘う。全力でそれを支えたいと思った。

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郡山市での上映会

『原発の町を追われて・十年』が初めて、福島県で上映された。10月29日、郡山市に在住の黒田節子さんが企画してくれたのだ。

その前日、黒田さん達が仲間たちと続けている、郡山駅前の金曜行動に参加した。首都圏で「原発反対」を叫ぶよりも、福島県でやるのは大変なこと。「通行人からは『まだ言ってんのか』と罵声を浴びせられることもあるよ」と黒田さん。批判も論争を期待していたが、広い広い郡山駅前。マイクでアピールしても、歌を歌っても、足を止める人はほとんどいない。ファンキーな10代の少年たちが遠巻きに見ながら、ちょこっと相手をしてくれたけれど。
モニタリングポストは0.12μ㏜。これが日常にすっかり溶け込んでいるようだった。

郡山駅前で脱原発を訴える

田中信一さんと制作者

翌日、市内にある「ミューカルがくと館」には、25名ほどの人たちが集まってくれた。その中に、双葉町民の鵜沼久江さんと田中信一さんがいた。二人とも映画に登場してくれていて、鵜沼さんとは何度も一緒にトークをしてきたが、田中さんが上映会に来るのは初めてだ。数年前から郡山で暮らしていて「ついに郡山で上映会やることになったよ」と電話したら、「そんなら行くか」と。
田中さんは旧騎西高校に双葉町民1400人が避難した時に出会い、初めて撮影を許してくれた人だ。
双葉町は原発事故後、井戸川克隆町長(当時)の判断で埼玉に役場を移したが、「なぜ福島県外なのか」と反発する町民も少なくなかった。埼玉にとどまる町民も多い中、福島に戻る人もいて、田中さんもその一人だった。
双葉町は二分化され、福島県内と県外の町民が交流することは難しくなった。人は自分のいる場所に順応して生きていくものだから。

鵜沼さんは埼玉県で野菜を作って生計を立てている。その一方で、双葉町での農作物の実証実験に参加するため、福島県に行くことが多い。一歩福島県に入ると、放射能や被ばくのことを話しにくいと言っていた。「埼玉じゃなくて、福島で農業やればいいじゃないか」と言われることも一度や二度ではない。
だから、福島県内でこの映画がどうみられるのか、鵜沼さんは心配だったに違いない。

上映が終わり、車座になった。「福島に残った人も、ご苦労なさいましたよね。それが聞きたくて、今日は郡山に来ました」と鵜沼さん。

田中さんが口火をきる。「郡山に車で10回。家族10人で転々とした。避難先で虐められる話をよく聞くが、それはおかしなことだ。何も悪いことをしたわけじゃなく、好きで逃げてきたのでもない。堂々と生きていけと、子どもや孫に仕向けてきた」。彼の家は福島第一原発から3キロのところにあり、中間貯蔵施設のために解体された。人生のすべてをつぎ込んだ我が家を失った後も、田中さんは腐ることなく、自分の人生を生き抜いている。

鵜沼さんは、双葉町に置いてきた牛たちを、いずれは埼玉に連れてくるつもりだった。その体力を維持するために、がむしゃらに働いたが、地元の人から「双葉町は出ていけ」と言われ続けた。委縮してしまう人も多いが、鵜沼さんの思いは「ふざけんな」だった。「好きで避難してきたわけじゃない」。県内いる人も県外にいる人も、共通の思いなのだ。

二人の話が呼び水になったのか。浪江町の男性が話し始めた。
「放射能の影響はないというけど、浪江町の一本松を、京都の大文字焼に使わなかったんだぞ。福島の電気、誰が使ってんだ。なんで石ぶつけれらなくちゃならないんだ。自分さえ良ければいいっていう連中ばっかりなんだよ。もっと人のこと考えることのできる人間がいてほしいと思うよ。アンマリじゃない?原発事故さえなければ、故郷を捨てて逃げるかって。最終処分もできないような原発やってきたんだ」

そして参加者が次々と思いのたけを語り始めた。溢れ出してくる、という感じだった。ひとりひとりに11年の体験があって、誰かが話せば、自分の思いをシンクロさせることができるのだ。
自民党の議員さんもご自身の体験をまじえ「福島では『触れちゃいけない』と思われていることが多い。でも『こういうことがあったんだ』と言わないと伝わらない」と話してくれた。
もっともっと垣根を超えていきたい。福島でこの映画を上映する機会をつくりたいと、強く思う。

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原発と国葬


 9月27日に、安倍元首相の国葬が行われました。反対の声は日に日に増え、安倍さんを弔うという雰囲気にはなるどころか、国論は二分されました。
 反対を押しつぶして強行するのは、この国ではよくあることです。安倍氏は生前、たくさんの嘘をついてきましたが、その最たるものが「汚染水はコントロールされている」と言って五輪を誘致したことでしょう。
 国葬翌日の28日、レイバーネットТVで「アンダーコントロールと言って消えた人」と題する特集を放送しました。国葬反対デモを呼び掛けたルポライター・鎌田慧さんと、福島県浪江町で「希望の牧場」を営む吉沢正巳さんがゲストです。吉沢さんは『原発の町を追われて・十年』にも登場し、復興五輪なんてやめちまえ!と叫んでいますが、国葬の当日も国会前に駆け付けました。
 国葬と原発は、とても似ていることが、この放送をご覧になるとよくわかります。
https://www.youtube.com/watch?v=OFJ2obTnLd8

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