伝承館は何を伝えるのか

 九月に双葉町に『東日本大震災・原子力災害伝承館」がオープンしたというので、10月24日、25日に行ってきました。二日間の行程を共にしたメンバーの中には双葉町民の鵜沼さんや、つい先日、わが家が解体されたばかりのYさんもいました。事故が起こる前は、郵便配達や水道の検針で双葉町民の家を訪ね歩いていたというYさん。久しぶりの双葉町はすっかり風景が変わってしまい、鵜沼さんに「ここは〇〇さんの家があったところだよ」と言われるたびに、目を丸くしていました。

 

どこを歩いているのかわからないと言いながら、写真を撮るYさん

 

 

 

 

 

 

 

伝承館は双葉町の中でも津波被害を受けた中野・中浜に建てられました。この地域は比較的放射線量は低いということで「特定復興再生拠点区域」に指定されているのですが、まっさらな土地にそびえたつ白い建物は、思いのほか立派で驚きました。
伝承館からすぐそばに海がみえます。3・11前、その海がみえないくらい、ここには沢山の家や松林がありました。何もかも流されてしまった現実を必死で受け止めながら、住民はそれぞれの避難先で、この9年を生きてきました。
町民は今も「仮の宿」での生活を余儀なくされているというのに。
伝承館はこの先なにがあっても、ここから動く気がないかのように、完成された姿をみせつけていました。

伝承館から海がみえる

 

 

 

 

53億円をかけて国が建てたという伝承館。入館料は大人600円。展示物の撮影は禁止。

最初に巨大スクリーンに、震災や事故をふりかえる映像と共に、「復興についてこの場所で考えることができたら」という西田敏行の語りが流れます。
奥には「語り部講話」の部屋があり、29人の語り部が日替わりで40分ほど体験を語るのですが、そもそも語り部になるためには審査があり、語る内容も国や東電を批判してはならないとのこと。私たちはそこで大熊町出身の男性の話を聞かせてもらったのですが、質疑応答も含めすべての内容がチェックされる環境で、本当に伝えたいことが伝えられるのかと思いました。
「しゃべるのにも気を遣うから」とYさん。福島では相手がどういう人かわかっていないと、思ったことを話せない空気があります。語り部の人たち、緊張することでしょう。講和が終わってから鵜沼さんやYさんが話しかけると、男性の表情が緩やかにほどけてきました。

語り部や案内職員を囲んで話をする。

館内職員も地元出身者が多く、双葉町民のYさんや鵜沼さんが話しかけると嬉しそう。同郷人として、この九年間をどう過ごしてきたのか。どうやって避難し、避難先での暮らしはどうなのか。町の復興計画をどう思うか。互いに経験を語り、気持ちを通わせることが、今だからできるようになったのだと、そばでみながら私は思いました。でも、それをやるのはここでなければならないのか。

伝承館が立っているのは海からわずか750メートル。福島第一原発から四キロで、すぐ隣には中間貯蔵施設があります。子どもの来館者も多く、一か月間で北海道から沖縄まで30以上の高校が修学旅行で訪れたとのことですが、まだ早いのでは? 私の問いかけに、職員は「郡山市や福島市じゃリアリティーがない。経験した場所でないと」と応えました。ここはもう、危ない場所ではないのでしょうか。「私たち職員は、ここには泊まれないんですよね」とおっしゃるので、せめてそのことを来館者に伝えてくださいとお願いすると「そうですよね」と、その人は言ったのでした。

 

巨大スクリーン 子どもたちも多い

伝承館がここに建っていることの意味を考えなければ。

伝承館を出た後、「自分が伝えなくちゃ」と、Yさんは何度もつぶやいていました。

 

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先がみえない中で

毎年三月から四月にかけては上映会が目白押しだったのですが、今年は新型コロナウイルスによって中止になりました。
そこで、この場で双葉町のことを伝えていこうと思います。

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 埼玉県加須市に、新築の家が建とうとしている。蜂須賀秀夫さん(76)。自らの手で我が家を建てたのは二度目だ。「加須は自然豊かでイイわい。イタチや山鳩、キジなんかもいる」。双葉町から避難して9年。道のりは長かった。

 蜂須賀さんに初めてお会いしたのは今年の一月。東京五輪へのカウントダウンが始まっていた。常磐線の全線開通に伴なって、双葉駅がリニューアルオープン。そこにつながる常磐道双葉インターも完成間近だった。帰還困難区域だった双葉町が、一部とはいえ避難解除になるのだ。
 そもそも双葉町の4%だけは、既に避難指示解除されていた。海岸沿いにある中野・中浜地区。放射線量が比較的低いということで、スクリーニング場を通らなくても、昼間であれば許可なく自由に立ち入ることができるのだ。

 蜂須賀さんはその「中浜」に住んでいた。腕のいい大工で、仕事のかたわら妻と米作りもやっていた。自宅から福島第一原発までの距離は3・5キロ。「25歳の時に原発ができた。危険なもの持ってきたなと思ってた。7、8号機ができると聞いた時、はじめて町政懇談会にも行ったわい。やめて欲しいと思って」。
 そして訪れた2011・3・11。西へ逃げろと言われ車を出した。前を走っていた女性ドライバーが、ウインカーも出さずに突然海の方に曲がって行ってしまった。車から降りて「だめだよ、そっち行っちゃ」と制しようとしたが、追いかける余裕はなく、のちにその人は津波にのまれ亡くなったことを知る。自分で建てた我が家も、基礎だけ残して流された。

 その後、蜂須賀さんは福島県内の避難所を転々とし、井戸川克隆町長が指示した埼玉県加須市の避難所におもむいた。旧騎西高校には1400人の双葉町民が身を寄せていた。「ひと月したら帰れる」「お盆には帰れる」と言う人たちが多かったが、蜂須賀さんは最初から「戻るのは無理だべ」と思っていた。やがて東電から賠償の話が出てきたが、蜂須賀さんの家は原発事故ではなく津波で流されたということで、一銭も支払われなかった。精神的慰謝料はもらったものの、それでは仮住まいしかできない。自力で生活を立て直したいという思いがあった。最近主流のプレカット工法でない、昔ながらの大工。木の調子をつかむことには自信があった。「うちが建てたのは震度七でも壊れなかった」。福島県内の仮設住宅の建設や一般住宅の修理を頼まれ、妻と二人で郡山市に移った。二年間働きずくめで、埼玉に戻って来た。

 騎西高校は2013年末に閉鎖したが、加須市内に残る町民も少なくなかった。そんな中で、蜂須賀さんは1町3反(3300坪)の田んぼを買った。ここに根をはると決めたのだ。「埼玉でコメ作ってれば安心だわい」と蜂須賀さんは言う。双葉町とは気候が違うから大変なのではと尋ねると「埼玉は温かいから草が伸びるのが早いって、それくらいだ」という。双葉時代、除草剤を撒かずにコメを作って来た蜂須賀さんにとって、草むしりなど大したことではなかった。

 

「復興計画マップ」をみる

「双葉町復興再生マップ」というのがある。双葉町は2022年に住民を帰還させる予定だ。双葉駅の西側に住宅を、そして比較的放射線量が低いとされる中野地区を「新産業創出ゾーン」、中浜地区を「水田再生活用拠点」にするという。中浜に水田を持っていた蜂須賀さんは、双葉町でコメをつくることに反対だ。「双葉で米作って誰が買うの。○○産っていって売るんだからナ」と蜂須賀さんはいう。「それって、いいんですか?」と私が聞くと、「悪いわぃ。でも産地偽装なんて、もうやってるから」。

 その水田づくりの計画が本格的に動き始めている。中野・中浜の住民が集められて説明会が行われたそうだ。「舞台ファーム」という仙台にある農業法人が説明に来ていて、もし住民が耕作しないのなら代わりに舞台ファームが米を作る。そして収穫した米は「宮城産」として販売するのだという。蜂須賀さん同様に米作りに反対だという地主もいるが、上から決まったことをただ聞かされるだけだった。
 いくら除染したところで、野菜と違って米は大量の水を使う。水源は浪江町の大垣ダムで放射線量が高い。「放射能の水で作った米はマズイぞ。上っ面の水だけを使うからさすけねえ(大丈夫)っていうが、わ(自分)の口に入るわけじゃないからそんなこと言うんだ」

 親戚のうち何人か、ここ数年でガンで亡くなった。放射能で汚染されたコメを食べたせいだと、蜂須賀さんは思っている。「セシウムが脊髄に入ると、リンパがんになりやすい。それに、発見されてから亡くなるまでが早すぎる」 証明はできないが、蜂須賀さんは原発のせいだと確信している。それなのに福島県は、福島で耕作する人に手厚い保証をする。「なんだって、埼玉でコメ作ればいいものを・・・」

 毎年3月になると、どれだけ復興したかという話題になる。「復興、復興って、そんなに急ぐことはねえべし。そっとしておくのが一番いい。山やダムは掃除してないんだから」。
 コロナによって五輪は延期になった。人間がどんなに願望しようと、ウイルスは思い通りになってはくれない。原発事故には早々と収束宣言を出した(2011年12月16日)日本政府も、今回は慎重にならざるを得ない。世界中が先の見えない生活を強いられたこの春、双葉町の避難者は、どこかどっしりと腰を据えているようにみえる。

完成間近の家を眺める蜂須賀さん

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新しくなった双葉駅


3月14日 常磐線が九年ぶりに全線開通になったその日。双葉駅に行ってきました。コロナの感染拡大を防ぐため、各地から双葉駅まで町民を乗せて運行する予定だったバスは中止。にもかかわらず、実際に行ってみると、ホームも改札構内も、人であふれかえっていたのには驚きました。「新幹線も止まるような駅だ」。昔の双葉駅を知る人にとって、信じられないほどの変わり様です。ホームの上で「標葉せんだん太鼓」が鳴り響く中、特急列車が滑り込んできました。

標葉せんだん太鼓

 

 

 

 

 

今回開通になった「双葉」「大野」「夜ノ森」各駅は帰還困難区域。駅周辺は人が住むことはできない線量で、今回の避難解除は電車を通すため、「復興五輪」に間に合わせるための解除でした。その五輪も延期となり、高線量の線路を毎日10往復以上走らせなければならない現実が残りました。列車を運転する鉄道員の被ばくが心配です。

無人駅のためオペレーターが対応する

無人駅のためオペレーターが対応する

 

 

 

双葉町の伊沢史郎町長は「復興および地方創生の新しい町づくりを実現する」とスピーチしました。2年後には駅の西側に復興住宅を建てて、町民が暮らせるようにするそうです。「30年は帰れないと言われていたのに」という双葉の人たちは、新しくなった双葉駅をどんな思いで見ているのでしょうか。

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3月15日「原発事故から9年 フクシマのいまを考える」 中止のお知らせ

3月15日(日)に板橋区立文化会館で予定していました「原発事故から9年 フクシマのいまを考える」は、新型コロナ感染症の拡大を受け、中止となりました。今後については、また新しい情報が入り次第お伝えします。

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避難指示解除を前にして

1月19日、東京・高円寺のフリースペース「グレイン」で、今年最初の『原発の町を追われて』上映会とトークが行われた。30人があつまり、双葉町から埼玉県加須市で避難生活をしている鵜沼久江さんの話に聞き入った。

 「今日は一番言いにくい話をします。お金の話です」と鵜沼さん。「避難者は賠償金もらって、いい思いして」と言われているがとんでもない。われわれ双葉町民には『生活再建のためのお金』として一律100万円渡されました。世間ではもらったお金だと思われているみたいですが、借りてるだけ。それも強制的な貸付なんですよ」。

 双葉町民には精神的慰謝料として、一人あたり一ヵ月10万円が振り込まれていた時期がある。このことがマスコミで報道されるや、避難者に対する世間の目は、同情からやっかみに変わった。避難先の小中学校で子どもたちはいじめにあい、働きに出た大人たちの中には「双葉の人間が来たから仕事がなくなった」と責められた人もいる。「私は避難先で必死になって野菜を作って売って来ましたが、『賠償金いっぱいもらってるのに、なんで働く必要があるんだ』と言われてきました。ひと月10万円で、どうやって生活するんですか」と鵜沼さんはいう。

 長きにわたり全町避難を余儀なくされてきた双葉町だが、この三月、ついに双葉駅を中心に、一部避難指示が解除される。それに伴い、東京五輪の聖火ランナーが双葉町を走ることも決まった(1月21日朝日新聞)。双葉駅はかつては止まらなかった特急が、止まる駅になるのだという。

 「福島第一原発は今も危険な状態にあります。昨年夏に一時帰宅した時、排気塔の撤去作業をしていたためか、付近の放射線量が上がりました。でも町民には何の説明もありません」。避難するのも避難解除するのも、上から勝手に決められてきた。復興再生計画もそうだ。津波で家が流された海沿いの地域は「水田再生ゾーン」になっている。そこに土地をもつ人は「こんなところでコメなんて作りたくない」という。それを見越して町は、福島県外の農業法人にコメ作りを委託している。国や県が決めたことに逆えば大変なことになるから、町長も町会議員も何も言わない。国が安全だといえば日本中が納得し、帰らないのが「わがまま」と言われる。「だったら総理大臣が家族をつれて住んでみてよ。そうすれば本当に安全なんだって、国民に伝わるから」と鵜沼さんは笑う。

 会場から「どうなることが復興だと思いますか?」と質問が出た。「双葉町に帰って、農業したいんだという人がいる。じゃあ、あんたの息子は引き継いで農業やるのかって聞くと『俺の息子は帰らねえ』っていう。それじゃあ、何のために双葉で農業やるのか。次世代に引き継げない、あと十年やそこらの自分の満足のために帰るなんて。そのための除染費用を、東電が出すならいい。でもそうじゃなくて、皆さんの税金でしょ? 無駄に使わないでほしい」。

 「双葉町は地図からなくなるんじゃない?」。加須市に避難した当初からそう思っていたと鵜沼さんは言う。周囲には、双葉町民だということを一切明かさず生きている人もいる。そうすれば職場でも学校でいじめられることがないからだ。鵜沼さんは双葉町民であることを隠さず、テレビや新聞の取材にも応じてきた。いじめやオリンピックへの言及もしたがカットされ、だからこそこういう上映会が貴重なのだと、忙しい農作業の合間をぬって駆けつけてくれた。

 親戚からは「もうテレビには出ないで」と言われるが怯まない。今、何が起こっているのか現実を話し続けること、それ以外に双葉町を存続させる手立てはないと、鵜沼さんは思っている。「お金をもらったからって黙り込んじゃダメ。やましいことでも何でもない」。双葉町民へのメッセージだ。

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2020年頭のごあいさつ

あけましておめでとうございます。

東日本大震災から9回目のお正月です。徐々に年賀状に「おめでとう」と書く人も増えてきたように思います。

今年はいよいよ「復興五輪」。それに向けて常磐線も完全開通し、すべての町が避難指示解除となります。五輪と共に、福島原発事故からの復興は成し遂げられたかのように。

毎年この時期になると「帰れる場所」が増えていきます。今年の3月には双葉町の一部(双葉駅周辺)が解除になり、これですべての自治体の「全町避難」が解かれることになるのです。

あれほど「帰りたい」と言っていた人たちが、一時帰宅するたびに「もう住めないね」と諦め、違う土地に根を張ることを決める。諦め、そして踏み出す。その繰り返しだった8年余。双葉郡の復興は、そうした人々の歳月に報いるものになっているのでしょうか。

昨年『盆歌』という映画をみました。心は双葉に置いたまま、別の場所で暮らす人々。埼玉でも双葉の盆踊りが毎年行われていたけれど、ご先祖様も一緒に踊っていたのです。

その盆踊りと、双葉町の今の風景を重ねて、三分映像を作りました。

「帰れる場所」それは、もとには戻らない場所なのです。

 

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復興五輪のために避難者は犠牲に?

東京五輪を来年に控え、福島の復興は着々と進んでいるかのようにみえます。福島第一原発を抱えた大熊町も今春一部地域が避難解除し、のこるは双葉町だけとなりました。
2013年9月に「状況はコントロールされている」と言い放った安倍首相。まだまだ予断を許さない廃炉作業や、処分しきれない放射性廃棄物、それに伴う人々の不安を無理やり押さえつけ、まさにコントロールしているのが今の国の在り方のように思えます。
今、福島はどうなっているのか。この8月と9月、2度にわたって浜通りに行きました。少しでも現状をお伝えできればと思います。
地元さいたま市の公民館での学習会。興味のある方はぜひお出かけください。

【桜区平和を考える会学習会】
『福島の現状を語る』~復興五輪のために避難者は犠牲に?~

日時 10月20日(日)14時~16時
場所 田島公民館講座室(埼玉県さいたま市桜区田島3-27-6 JR西浦和駅から徒歩8分)
資料代 300円 予約の必要はありません
連絡先 090-4433-7092(小高) Email kodaka@jca.apc.org

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アップリンク渋谷での上映が決まりました

7月15日(月・祝)11午前より、東京・渋谷のアップリンクで上映が決まりました。
山谷哲夫監督プロデュース企画「11AM名画発見」の中に選ばれ、2011年から2017年にわたって記録した『原発の町を追われて』三部作102分を上映します。上映後は、第三部に出てくる双葉町民、鵜沼久江さんと舞台挨拶します。

「いつかまた起こる原発避難。その時にまた私達のような思いをされる方はどれ位おられのでしょう。人間をやめたくなる、そんな日々が今もづついています。ぜひ一度ご覧いただきたいです」(鵜沼久江)

【アップリンク渋谷】
03-6825-5503 shibuya@uplimk.co.jp
東京都渋谷区宇田川町37-18 トツネビル1階
定員58名 全席指定 7月1日よりオンライン(上記ホームページ)か、劇場窓口でチケット販売開始

特集上映「11AM劇場 名画発見!」


一般1800円 シニア1100円(その他詳細はチラシをご覧ください)

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双葉の若者たちへ

Hさんは予備校生。高校はスクーリング制を利用して卒業したのだが、大学には行きたいという漠然とした思いはある。
咳がひどくて眠れない。朝起きられないから予備校もさぼりがちだ。精神的ストレスは他人からはみえにくい。

Hさんは小4で被災した。いくつかの避難所を転々として、埼玉に来た。避難先の小中学校で嫌な目にあって、四年前に引っ越した。そこではおそらく避難者だとか、双葉町出身だとか、友達には言ってないんじゃないかと思う。
ラクになったかと思いきや、一年で高校に通えなくなってしまう。

Hさんは私の映画に出てくれたばかりか、上映会後のトークでも自分の思いを語ってくれていた。しなやかな感性の持ち主だった彼女が背負ったものは、とてつもなく大きかったに違いない。
そんな彼女が予備校に通うため、この春、埼玉に戻って(?)来た。

彼女に「みな、やっとの思いで坂をのぼる」(永野三智著)を渡した。
この本の筆者はね、水俣出身だというのを隠してたんだよ。そう言ったとたんに彼女の眼の色が変わった。

双葉町は教育に力を入れる町で、中高生の希望者を海外研修に行かせていた。3・11後もそれは続いていて、彼女も昨年志願してニュージーランドに行った。「自分の気持ちを言葉できちんと表現できる人がいることに驚いた」。それがニュージーランドで得た最大の成果だという。

負けるなHさん。無理したら壊れてしまうくらいなら、じっくり時間をかけて考えればいい。
正直に生きて行け。
復興は長くかかる。生きている間に廃炉なんて無理だ。
その責任を回避する為政者と、ひきうけていく次世代を、私は記録したい。

故郷への望郷の念ばかりではなく、この先を生きてゆくあなたたちのことを。

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桜の季節、ニューヨークの学生に元気をもらう

スカイプじゃなくて、スマホのline機能を使った

 ニューヨークにある市立ハンターカレッジの授業で、『原発の町を追われて』を上映することになった。講師はタハラレイコさんという日本人。自らも映画を作り、海外にわたってメディア論を教えている。メールでやり取りするだけの間柄だったが、福島原発事故のことを生徒たちに考えさせたいと、上映だけでなく質疑応答ができるようセッティングしてくれた。15人ほどの学生のうち、7割が有色人種。カザフスタンやエジプトなどから来た貧しい若者が多いという。
 
 レイコといろいろテストして、スカイプがダメだとわかり、他の手段を考えた。スマホのline、またはMessengerで、海外の人と顔を突き合わせてやりとり出来るんですね。知らなかった・・・。
 第二部に描かれているような、町民の分断、町長のリコールなんてわかりにくいんじゃないかとレイコに聞くと、それこそが興味深い内容だという。帰還政策が進んでいることを話すと、おそらく生徒たちは、福島に帰ろうとする人たちがいることに驚くだろうと言った。

 3月26日10時。日本は朝だがニューヨークは夜だ。スマホを机に置いて待機していると「今、上映終わりました。皆、質問したいこと沢山あるようなので」とレイコ。それは、日本での上映会ではありえないことだ。
 一時間、教室のすべての生徒が手をあげ質問した。こちらは朝だが向こうは夜。学生たちは疲れて眠いはず。なるべく簡潔に答えようと思うのだが、いつもの癖で情緒的になってしまい、単刀直入な答えができない。

 質問の一例。
「アメリカなら暴動が起きるはずだが、映画を観る限り、人々は政府やテプコに対してそれほど怒っていないようにみえる。(言葉では語っているが)。これはこの地域特有のものなのか」
「テプコに忠誠心があるのか? だったらアメリカの炭鉱産業と似ている気がする」
「この映画をみた双葉町民のリアクションは?そして八年たった今どう変化しているか?」
「2014年にガイガーカウンターを持って福島に行った。日本では民間でどれくらい測定する団体があるのか?」
「原爆を落とされた日本は核に対するマイナスイメージがあるはずなのに、なぜ原発をやめないのか?」
・・次々と直球を投げられ、苦心しながら答えたが、終わってからとてもスッキリした。彼らとやり取りしながら、これだけの損害を与えながらも再稼働をやめないこの国を、変えられるのではないかという期待を抱いた。
 なぜ日本ではこのような質問が出ないのか。

海外だから遠慮なく口にできることもあるだろう。
福島県外だから言えることもあるだろう。
私だって職場の外だから、こうして発言できるのだ。
「こうあるべき」ということが、自分の足元、身内、日常生活において実践できたら。
それこそが一番の力になる。

アメリカの学生の質問で最も辛辣だったのは
「あなたにとってこれが一番大きな作品だと思うが、この映画によって自分の生活が変わったか? あなたは今何をしているか?」

アメリカも桜が満開だそうだ。でも日本のようにお花見などしない。
日本人ならではの情緒を大切にしつつ、聞きたいことは聞く、その姿勢に学びたいと思う。⁺

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