「十年」スタート

 7月レイバー映画祭を皮切りに、『原発の町を追われて・十年』の上映会が始まりました。
 9月14日、東京・飯田橋でのビデオアクト上映会。ここでは初めて作った作品『神の舞う島』(上関原発に反対する祝島の人達)を含め、『原発の町を追われて』シリーズの四つの作品をすべて上映してもらってきました。
 「十年ということで、なぜ作ろうと思ったのか」という土屋豊さんの質問に、「十年にこだわる気はなかった。でも、マスコミの報道は10年という区切りで縮小することを避難者はわかっていて、今年が最後のつもりで取材に応じた人もいる。頑張っているテレビもあった(ТBS『報道特集』のことです)。それを観ていたら、私もやっぱり作ってみたくなった」と答えました。
 マスコミに対抗する給食調理員?? いやあ、そんな恐れ多いことはいいません!!

 『原発の町を追われて・十年』は、これまで以上に沢山の人に力をもらいました。何より音楽。
 四月にフクシマを伝えるアートイベント「もやい展」で、「まつろわぬ民」という朗読劇を観ました。劇中に流れる「更地のうた」というギターを聴いたとき、その一週間前に撮影した希望の牧場の風景が見事に重なり、映画をつくれと言われた気がしたのです。
 ギターを演奏していたのはファンテイルという在日三世の若者でした。その場で「音楽を使わせてほしい」と頼みました。ファンテイルは快く引き受けてくれました。音楽の力は大きい。素晴らしい出会いでした。十年やってきたご褒美だと、ひそかに思っています。
 彼の父も韓国の民族音楽をやっているアーティストで、ちょうどNHKに出ているのを観ました。そこで彼は、幼いころからの苦労を語ります。「在日で何が悪い。そう言えたらどんなにいいだろうと思ってきた」
 この言葉が、『十年」の中にも出てきます。「双葉で何が悪い」。

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 映画を観てくださった人の感想を紹介します。

〇胸がいっぱいになってしまいました。田中さんの家、荒らされてしまって、それをみるのもつらい。壊したくない気持ち、言葉少ない中からもものすごくつたわってきます。鵜沼さんの牛たちを想う気持ち、つらいけど自力で生活を立て直している努力、並大抵ではないと思う。避難者はこんなにも苦悩しているのに、まるで存在していないかのような聖火リレーのテレビ画面。映画ではテレビからこぼれる状況を暴いている。希望の牧場・吉沢さんの叫び。自分も縛られているかも知れない。はっとしました。制作者の眼差しに迷いがない映画でした。

〇吉沢さんの激しい言葉は「本当のこと」なのです。避難して五年くらいは、双葉町民は同じことを口にしていたのです。しかし十年経過の現在、吉沢さんのように大声で言える人は少ないでしょう。なぜ?お金が絡んでいるからです。鵜沼さんが牧場に預けた牛にお別れするラストシーンに、感涙しました。(双葉町民)

 コロナ禍ですが、がんばって上映会を続けていきます。次の十年に向けて。

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『原発の町を追われて・十年』


前回の投稿から随分立ってしまいました。四月から、双葉町の十年をテーマにした新作づくりに没頭していました。タイトルは『原発の町を追われて・十年』。7月31日のレイバー映画祭で初上映します。
十年たったから何なんだという気持ちもあったけれど、やっぱりこの時点での双葉町を映像作品に残したいと思いました。「十年」というのはそれなりの歳月で、50分にまとめるのは大変でしたが、ようやく完成にこぎつけました。
制作にあたって、この十年で撮りためたテープやデータを引っ張り出してみました。膨大な量でしたが、懐かしい人、思いもよらなかったシーンに再会することができました。でも、単なる思い出話にするのでなく、原発避難とはどういうことなのか、知ってもらいたいと思います。
私自身こんなにも双葉の人たちと接し、撮影させてもらってきたというのに、実はわかっていなかった。制作しながら彼らが言っていたことの意味に初めて気づくということがありました。きっとまだわかっていないことが沢山あるのでしょう。
双葉の人たちは一日一日を精いっぱい生きている。どうにか生きている、ただ生きてるだけという人もいる。今までと何も変わらず生きているという人は、おそらく誰もいないと思います。十年という区切りに何の意味があるのか。意味を持たせているのは国の側であり「十年たったから、この問題は終わったことにしよう」という意図がみえみえだと思います。現実は混迷したままなのに、人々は再生に向かって頑張っていると言い、駅を新しくし、聖火リレーのランナーを走らせるために避難解除し、来年には人々を帰還させようとしています。そして賠償打ち切り。避難先で働けない人たちを作り出し、身動き取れない状態にしておいて、十年たって放り出す。この残酷な仕打ちに対しても、世間の目は冷ややかです。
だから私は10年たったから終わりではなく、この先も双葉町を追い続けようと思います。

『原発の町を追われて』は、レイバー映画祭ではじめて上映してもらってから、四度目の上映となります。コロナ禍でもあり、都内への外出が憚られるという人も多いと思い、今回はオンライン配信もやります。ネット環境にある方は映画祭のすべての上映作品を、自宅で観ることができます。申し込んでいただければ、1週間、観ることができます。 https://teket.jp/1373/5234
 
【レイバー映画祭2021】 
 7月31日(土) 東京・全水道会館4階ホール(JR水道橋駅「東口」2分・都営地下鉄三田線水道橋駅「A1出口」1分)
 10時15分~17時(開場9時45分)
 ※上映作品  
 10時15分~『グッバイ・マイヒーロー』(110分)
 12時15分~『ユニクロ/ジャバ・ガーミンド争議』(10分)
 12時15分~13時 休憩 
 13時~『闇に消されてなるものか~写真家・樋口健二の世界』(80分)
 14時40分~14時50分 休憩
 14時50分~『原発の町を追われて・十年』(53分)
 15時50分~『映画批評家の冒険』(52分)
 17時 終了
            

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二つの除幕式

 原発事故による全町避難を余儀なくされてから10年。双葉ではこの三月、二つの除幕式が行われました。
 ひとつめは旧騎西高校(埼玉県)。2011年4月からおよそ三年間、双葉町の人たちの避難所となった場所です。町民を放射能の被爆から遠ざけたいと奔走した井戸川克隆町長(当時)に応えて、埼玉県の許可のもと加須市が全面的に支援し、校舎に畳を運び入れたりして町民を迎えたのです。多い時で1400人。およそ2割にあたる双葉町民が身を寄せました。

モニュメントを制作した加須市・双葉町の彫刻家と書家

友好碑を制作した加須市・双葉町の彫刻家と書家。中央は「希望」を揮毫した渡部翠峰さん

 見知らぬ町での集団生活。受け入れる人も受け入れられる人も、大変だったと思います。それでも「地元の人に助けられた」という人は多く、2013年12月に避難所は閉鎖になるころには「ここが第二の故郷だ」という声を聴くようになりました。帰る場所のないまま、400人近い人が今も加須市で暮らしています。
 2016年11月、加須市と双葉町は友好都市盟約を結び、この春、旧騎西高校の正門に友好の記念碑が建つことに。加須市、双葉町の彫刻家と書家が力を合わせて、このモニュメントを完成させました。

 

「希望」の石碑は双葉町の方角を向いている

関根茂子さん

 3月6日の除幕式には、コロナでなかなか集まることがままならない中、双葉町民、加須市民だけでなく沢山の記者たちも、久しぶりの再会を喜び合いました。加須市の大橋市長の「最後の一人が残るまで、加須市は支援を続けます」というあいさつに「これからも堂々と加須で暮らしていける」という町民もいました。式典が終わった後も、モニュメントの前で写真を撮る人は後を絶たちません。津波で三人の親戚を亡くした双葉町民・関根茂子さんは「毎月11日には雨の日も風の日も、必ずここで黙祷してきた。友好碑が出来て本当に嬉しい。これからはますます希望をもってここに来れます」と語っていました。

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 そしてもう一つは昨年リニューアルした双葉駅。聖火ランナーが走った証として、リレー記念碑の除幕式が行われました。

ランナーのコースとなった双葉駅東側(撮影:見雪恵美)

辞退する人も多い中で行われた 
聖火リレー記念碑の除幕式(撮影:見雪恵美)

 3月25日、福島県jビレッジから始まる聖火リレーが、双葉町にもやってきます。コロナ禍でもあり、どれだけの人が応援に来るだろうか。そもそも本当に開催されるのだろうか。半信半疑で行ってみたところ、集まった多くは報道陣。住民と思しき人に声をかけると「リレー開催地の担当なので視察に来た」とか「実は警備なんです」という返事。撮影するのもメディアが前で、一般の人たちは外側からの応援が要請されました。

 ランナーのスタートを待つ間、ひときわ目立ったのが「希望の牧場」吉沢正巳さんの「カウゴジラ」号でした。「オリンピックなんてできるわけない。やめてしまえ!」悲鳴にも涙声にも聞こえる声が響きます。吉沢さんは、原発事故によって警戒区域から連れ出せなくなった牛たちの殺処分に敢然と抗議し、およそ300頭の牛たちを保護しています。この日もほとんどのリレー会場を回り、地元である浪江町では「汚染水を流されて、請戸の漁師たちは黙ってていいのか」と叫んだそうです。

せんだん太鼓。前列手前が横山久勝さん

 午後2時46分。少しでも双葉らしさを出そうと「せんだん太鼓」が鳴り響く中、第一走者の桜庭梨那さんが駅前からスタート。多くの警備の人に囲まれて、500メートルのコースを、三人のランナーが聖火をつなぎました。せんだん太鼓の代表・横山久勝さんは「双葉町の復興はまだ何も進んでいない。駅が新しくなったって何の影響もないですよ。30年は帰れないと国は言っていた。ただ、自分が愛してやまない双葉の伝統芸能を絶やすことなく受け継いでもらえれば」と語りました。

双葉駅の西側は造成工事が進み、来年春には復興住宅ができる

 加須市と双葉駅に建った二つのモニュメント。どちらの方向をみているのか、その違いは歴然としているように思うのです。

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「風化させるな」という前に

 2012年。世の中はコロナ一色の年明けですが、東日本大震災と福島第一原発のメルトダウンから10年。これからしばらくは、メディア報道が増えることでしょう。
 「避難先での生活にも慣れていたし、そっとしておいてほしい」という声も聞こえてきます。被災者、避難者にとっては10年だからといって何か特別なことがあるわけではない、一日一日の積み重ねだけだといわれるかもしれません。

 昨年は自主上映会の大半が中止になりました。双葉町の人たちの集まりも中止になり、なかなか双葉の人と会うこともできなくなる中、一冊の本をAmazonで取り寄せました。

 『災害からの命の守り方~私が避難できたわけ』(文芸社)
 著者は森松明希子さん。2011年3月11日から二か月後、福島県郡山市から幼い二人の子どもを連れて、大阪に避難しました。父親だけ郡山市に残して、三人だけの避難生活は今も続いています。
 郡山市は福島第一原発から60キロ。おそらく10キロ、20キロ圏内の人たちの避難が優先されなくてはならず、郡山はその後だと思っていた。ある日、東京・金町浄水場から高濃度の放射能が検出されたというニュースが流れ、森松さんはびっくりします。東京の水が汚染されているのに、郡山が大丈夫なはずがない。しかし福島県からは何の注意勧告もなく、ペットボトルも配られない。森松さんは0歳と3歳の幼子に水を飲ませてしまったことに大きなショックを受けます。
「子どもをできるだけ良い環境で育てたいと思うのが親だ。ましてや毒を飲ませたいと思う親などいない」
 そこに異論を持つ人はいないでしょう。

 双葉町は「国も県も事実を隠す。町民を放射能から守りたい」という井戸川克隆町長の信念によって、多くの町民が埼玉県加須市で避難生活を始めました。森松さんのように「命を最優先するべき」という人からみれば、双葉町はうらやましい(というか真っ当な価値判断をした)町だということになるでしょう。ただ、双葉町を含む強制避難区域の人たちは、ひと月10万円の保障を否応なしにもらう時期が何年かありました。そのお金があれば避難生活を続ける上で、少なくとも餓死することはないでしょうと森松さんは言います。
 郡山市は一度も避難指示が出されたことはありません。いみじくも「自主避難は自己責任」という復興大臣の言葉が示したように、「する必要のない避難をなぜするのか」と言われてしまう。
 しかし、避難したいというお母さんはたくさんいた。森松さんの自宅の目の前もフレコンバックが山積みで放射線量も高い。週末に子どもを車に乗せて、山形や新潟の公園で遊ばせる。

 「フレコンの前で子育てわたし無理」
 森松さんは川柳をつくりました。「よく言ってくれた」という共感がある一方で、そこで暮らしている人たちも大勢いるのに不安を煽るなという声もありました。森松さんの周りには「避難した人」「残った人」「避難したけれど戻った人」様々な人がいますが、「避難したけど戻った人」にのみ助成金が出されるのだそうです。「命を大切に」というけれど、放射能から逃げることが否定的にとらえられてしまうのは何故なのか。「津波てんでんこ」が教訓にされているのに「放射能てんでんこ」は間違っているのか。
 
「風化させてはいけない」
 私はよくそう言ってきました。しかし森松さんは「風化とは、もともと形あるものが、時間の経過とともになくなっていく様」だが、原発事故による被害の事実が一度でも共有されたことがあるだろうか。被害の全体像も、個別の被害も、未だ存在が認められていないではないか」と書いています。そもそも森松さん自身が、被害者数にカウントされていなかったのです。10年たとうとする今も、何人の人たちが避難を余儀なくされているのか、その数すら把握されていないのです。
 
 私自身、2011年3・11を埼玉県で体験し、放射能の被ばくに脅える日々を過ごしました。当時から比べれば空間線量は下がったらしい。でも原子力緊急事態宣言は未だ解除されていません。それなのにいつの間にか恐怖心は消え、避難生活を続ける人に同情している有様です。いつからこうなってしまったのだろう。政府が決めた線引きの外側にいるから安心だなんて、そんなことを信じているわけではないのに。あの日、私を含め多くの人が「当事者」だった。何も解決しないうちに、当事者を辞めていく人が多い。

 「ある一つの誰かに都合のいい言論があたかも正しいことかのようにお金をつぎ込んで宣伝されると、事実は消されてしまう」と森松さんは書き、だからこそ当事者は、経験や事実を伝える社会的役割があると言っています。
 たくさんのボールを投げかけられました。討論会などできればいいなと思います。
 ぜひご一読を。

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伝承館は何を伝えるのか

 九月に双葉町に『東日本大震災・原子力災害伝承館」がオープンしたというので、10月24日、25日に行ってきました。二日間の行程を共にしたメンバーの中には双葉町民の鵜沼さんや、つい先日、わが家が解体されたばかりのYさんもいました。事故が起こる前は、郵便配達や水道の検針で双葉町民の家を訪ね歩いていたというYさん。久しぶりの双葉町はすっかり風景が変わってしまい、鵜沼さんに「ここは〇〇さんの家があったところだよ」と言われるたびに、目を丸くしていました。

 

どこを歩いているのかわからないと言いながら、写真を撮るYさん

 

 

 

 

 

 

 

伝承館は双葉町の中でも津波被害を受けた中野・中浜に建てられました。この地域は比較的放射線量は低いということで「特定復興再生拠点区域」に指定されているのですが、まっさらな土地にそびえたつ白い建物は、思いのほか立派で驚きました。
伝承館からすぐそばに海がみえます。3・11前、その海がみえないくらい、ここには沢山の家や松林がありました。何もかも流されてしまった現実を必死で受け止めながら、住民はそれぞれの避難先で、この9年を生きてきました。
町民は今も「仮の宿」での生活を余儀なくされているというのに。
伝承館はこの先なにがあっても、ここから動く気がないかのように、完成された姿をみせつけていました。

伝承館から海がみえる

 

 

 

 

53億円をかけて国が建てたという伝承館。入館料は大人600円。展示物の撮影は禁止。

最初に巨大スクリーンに、震災や事故をふりかえる映像と共に、「復興についてこの場所で考えることができたら」という西田敏行の語りが流れます。
奥には「語り部講話」の部屋があり、29人の語り部が日替わりで40分ほど体験を語るのですが、そもそも語り部になるためには審査があり、語る内容も国や東電を批判してはならないとのこと。私たちはそこで大熊町出身の男性の話を聞かせてもらったのですが、質疑応答も含めすべての内容がチェックされる環境で、本当に伝えたいことが伝えられるのかと思いました。
「しゃべるのにも気を遣うから」とYさん。福島では相手がどういう人かわかっていないと、思ったことを話せない空気があります。語り部の人たち、緊張することでしょう。講和が終わってから鵜沼さんやYさんが話しかけると、男性の表情が緩やかにほどけてきました。

語り部や案内職員を囲んで話をする。

館内職員も地元出身者が多く、双葉町民のYさんや鵜沼さんが話しかけると嬉しそう。同郷人として、この九年間をどう過ごしてきたのか。どうやって避難し、避難先での暮らしはどうなのか。町の復興計画をどう思うか。互いに経験を語り、気持ちを通わせることが、今だからできるようになったのだと、そばでみながら私は思いました。でも、それをやるのはここでなければならないのか。

伝承館が立っているのは海からわずか750メートル。福島第一原発から四キロで、すぐ隣には中間貯蔵施設があります。子どもの来館者も多く、一か月間で北海道から沖縄まで30以上の高校が修学旅行で訪れたとのことですが、まだ早いのでは? 私の問いかけに、職員は「郡山市や福島市じゃリアリティーがない。経験した場所でないと」と応えました。ここはもう、危ない場所ではないのでしょうか。「私たち職員は、ここには泊まれないんですよね」とおっしゃるので、せめてそのことを来館者に伝えてくださいとお願いすると「そうですよね」と、その人は言ったのでした。

 

巨大スクリーン 子どもたちも多い

伝承館がここに建っていることの意味を考えなければ。

伝承館を出た後、「自分が伝えなくちゃ」と、Yさんは何度もつぶやいていました。

 

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先がみえない中で

毎年三月から四月にかけては上映会が目白押しだったのですが、今年は新型コロナウイルスによって中止になりました。
そこで、この場で双葉町のことを伝えていこうと思います。

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 埼玉県加須市に、新築の家が建とうとしている。蜂須賀秀夫さん(76)。自らの手で我が家を建てたのは二度目だ。「加須は自然豊かでイイわい。イタチや山鳩、キジなんかもいる」。双葉町から避難して9年。道のりは長かった。

 蜂須賀さんに初めてお会いしたのは今年の一月。東京五輪へのカウントダウンが始まっていた。常磐線の全線開通に伴なって、双葉駅がリニューアルオープン。そこにつながる常磐道双葉インターも完成間近だった。帰還困難区域だった双葉町が、一部とはいえ避難解除になるのだ。
 そもそも双葉町の4%だけは、既に避難指示解除されていた。海岸沿いにある中野・中浜地区。放射線量が比較的低いということで、スクリーニング場を通らなくても、昼間であれば許可なく自由に立ち入ることができるのだ。

 蜂須賀さんはその「中浜」に住んでいた。腕のいい大工で、仕事のかたわら妻と米作りもやっていた。自宅から福島第一原発までの距離は3・5キロ。「25歳の時に原発ができた。危険なもの持ってきたなと思ってた。7、8号機ができると聞いた時、はじめて町政懇談会にも行ったわい。やめて欲しいと思って」。
 そして訪れた2011・3・11。西へ逃げろと言われ車を出した。前を走っていた女性ドライバーが、ウインカーも出さずに突然海の方に曲がって行ってしまった。車から降りて「だめだよ、そっち行っちゃ」と制しようとしたが、追いかける余裕はなく、のちにその人は津波にのまれ亡くなったことを知る。自分で建てた我が家も、基礎だけ残して流された。

 その後、蜂須賀さんは福島県内の避難所を転々とし、井戸川克隆町長が指示した埼玉県加須市の避難所におもむいた。旧騎西高校には1400人の双葉町民が身を寄せていた。「ひと月したら帰れる」「お盆には帰れる」と言う人たちが多かったが、蜂須賀さんは最初から「戻るのは無理だべ」と思っていた。やがて東電から賠償の話が出てきたが、蜂須賀さんの家は原発事故ではなく津波で流されたということで、一銭も支払われなかった。精神的慰謝料はもらったものの、それでは仮住まいしかできない。自力で生活を立て直したいという思いがあった。最近主流のプレカット工法でない、昔ながらの大工。木の調子をつかむことには自信があった。「うちが建てたのは震度七でも壊れなかった」。福島県内の仮設住宅の建設や一般住宅の修理を頼まれ、妻と二人で郡山市に移った。二年間働きずくめで、埼玉に戻って来た。

 騎西高校は2013年末に閉鎖したが、加須市内に残る町民も少なくなかった。そんな中で、蜂須賀さんは1町3反(3300坪)の田んぼを買った。ここに根をはると決めたのだ。「埼玉でコメ作ってれば安心だわい」と蜂須賀さんは言う。双葉町とは気候が違うから大変なのではと尋ねると「埼玉は温かいから草が伸びるのが早いって、それくらいだ」という。双葉時代、除草剤を撒かずにコメを作って来た蜂須賀さんにとって、草むしりなど大したことではなかった。

 

「復興計画マップ」をみる

「双葉町復興再生マップ」というのがある。双葉町は2022年に住民を帰還させる予定だ。双葉駅の西側に住宅を、そして比較的放射線量が低いとされる中野地区を「新産業創出ゾーン」、中浜地区を「水田再生活用拠点」にするという。中浜に水田を持っていた蜂須賀さんは、双葉町でコメをつくることに反対だ。「双葉で米作って誰が買うの。○○産っていって売るんだからナ」と蜂須賀さんはいう。「それって、いいんですか?」と私が聞くと、「悪いわぃ。でも産地偽装なんて、もうやってるから」。

 その水田づくりの計画が本格的に動き始めている。中野・中浜の住民が集められて説明会が行われたそうだ。「舞台ファーム」という仙台にある農業法人が説明に来ていて、もし住民が耕作しないのなら代わりに舞台ファームが米を作る。そして収穫した米は「宮城産」として販売するのだという。蜂須賀さん同様に米作りに反対だという地主もいるが、上から決まったことをただ聞かされるだけだった。
 いくら除染したところで、野菜と違って米は大量の水を使う。水源は浪江町の大垣ダムで放射線量が高い。「放射能の水で作った米はマズイぞ。上っ面の水だけを使うからさすけねえ(大丈夫)っていうが、わ(自分)の口に入るわけじゃないからそんなこと言うんだ」

 親戚のうち何人か、ここ数年でガンで亡くなった。放射能で汚染されたコメを食べたせいだと、蜂須賀さんは思っている。「セシウムが脊髄に入ると、リンパがんになりやすい。それに、発見されてから亡くなるまでが早すぎる」 証明はできないが、蜂須賀さんは原発のせいだと確信している。それなのに福島県は、福島で耕作する人に手厚い保証をする。「なんだって、埼玉でコメ作ればいいものを・・・」

 毎年3月になると、どれだけ復興したかという話題になる。「復興、復興って、そんなに急ぐことはねえべし。そっとしておくのが一番いい。山やダムは掃除してないんだから」。
 コロナによって五輪は延期になった。人間がどんなに願望しようと、ウイルスは思い通りになってはくれない。原発事故には早々と収束宣言を出した(2011年12月16日)日本政府も、今回は慎重にならざるを得ない。世界中が先の見えない生活を強いられたこの春、双葉町の避難者は、どこかどっしりと腰を据えているようにみえる。

完成間近の家を眺める蜂須賀さん

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新しくなった双葉駅


3月14日 常磐線が九年ぶりに全線開通になったその日。双葉駅に行ってきました。コロナの感染拡大を防ぐため、各地から双葉駅まで町民を乗せて運行する予定だったバスは中止。にもかかわらず、実際に行ってみると、ホームも改札構内も、人であふれかえっていたのには驚きました。「新幹線も止まるような駅だ」。昔の双葉駅を知る人にとって、信じられないほどの変わり様です。ホームの上で「標葉せんだん太鼓」が鳴り響く中、特急列車が滑り込んできました。

標葉せんだん太鼓

 

 

 

 

 

今回開通になった「双葉」「大野」「夜ノ森」各駅は帰還困難区域。駅周辺は人が住むことはできない線量で、今回の避難解除は電車を通すため、「復興五輪」に間に合わせるための解除でした。その五輪も延期となり、高線量の線路を毎日10往復以上走らせなければならない現実が残りました。列車を運転する鉄道員の被ばくが心配です。

無人駅のためオペレーターが対応する

無人駅のためオペレーターが対応する

 

 

 

双葉町の伊沢史郎町長は「復興および地方創生の新しい町づくりを実現する」とスピーチしました。2年後には駅の西側に復興住宅を建てて、町民が暮らせるようにするそうです。「30年は帰れないと言われていたのに」という双葉の人たちは、新しくなった双葉駅をどんな思いで見ているのでしょうか。

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3月15日「原発事故から9年 フクシマのいまを考える」 中止のお知らせ

3月15日(日)に板橋区立文化会館で予定していました「原発事故から9年 フクシマのいまを考える」は、新型コロナ感染症の拡大を受け、中止となりました。今後については、また新しい情報が入り次第お伝えします。

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避難指示解除を前にして

1月19日、東京・高円寺のフリースペース「グレイン」で、今年最初の『原発の町を追われて』上映会とトークが行われた。30人があつまり、双葉町から埼玉県加須市で避難生活をしている鵜沼久江さんの話に聞き入った。

 「今日は一番言いにくい話をします。お金の話です」と鵜沼さん。「避難者は賠償金もらって、いい思いして」と言われているがとんでもない。われわれ双葉町民には『生活再建のためのお金』として一律100万円渡されました。世間ではもらったお金だと思われているみたいですが、借りてるだけ。それも強制的な貸付なんですよ」。

 双葉町民には精神的慰謝料として、一人あたり一ヵ月10万円が振り込まれていた時期がある。このことがマスコミで報道されるや、避難者に対する世間の目は、同情からやっかみに変わった。避難先の小中学校で子どもたちはいじめにあい、働きに出た大人たちの中には「双葉の人間が来たから仕事がなくなった」と責められた人もいる。「私は避難先で必死になって野菜を作って売って来ましたが、『賠償金いっぱいもらってるのに、なんで働く必要があるんだ』と言われてきました。ひと月10万円で、どうやって生活するんですか」と鵜沼さんはいう。

 長きにわたり全町避難を余儀なくされてきた双葉町だが、この三月、ついに双葉駅を中心に、一部避難指示が解除される。それに伴い、東京五輪の聖火ランナーが双葉町を走ることも決まった(1月21日朝日新聞)。双葉駅はかつては止まらなかった特急が、止まる駅になるのだという。

 「福島第一原発は今も危険な状態にあります。昨年夏に一時帰宅した時、排気塔の撤去作業をしていたためか、付近の放射線量が上がりました。でも町民には何の説明もありません」。避難するのも避難解除するのも、上から勝手に決められてきた。復興再生計画もそうだ。津波で家が流された海沿いの地域は「水田再生ゾーン」になっている。そこに土地をもつ人は「こんなところでコメなんて作りたくない」という。それを見越して町は、福島県外の農業法人にコメ作りを委託している。国や県が決めたことに逆えば大変なことになるから、町長も町会議員も何も言わない。国が安全だといえば日本中が納得し、帰らないのが「わがまま」と言われる。「だったら総理大臣が家族をつれて住んでみてよ。そうすれば本当に安全なんだって、国民に伝わるから」と鵜沼さんは笑う。

 会場から「どうなることが復興だと思いますか?」と質問が出た。「双葉町に帰って、農業したいんだという人がいる。じゃあ、あんたの息子は引き継いで農業やるのかって聞くと『俺の息子は帰らねえ』っていう。それじゃあ、何のために双葉で農業やるのか。次世代に引き継げない、あと十年やそこらの自分の満足のために帰るなんて。そのための除染費用を、東電が出すならいい。でもそうじゃなくて、皆さんの税金でしょ? 無駄に使わないでほしい」。

 「双葉町は地図からなくなるんじゃない?」。加須市に避難した当初からそう思っていたと鵜沼さんは言う。周囲には、双葉町民だということを一切明かさず生きている人もいる。そうすれば職場でも学校でいじめられることがないからだ。鵜沼さんは双葉町民であることを隠さず、テレビや新聞の取材にも応じてきた。いじめやオリンピックへの言及もしたがカットされ、だからこそこういう上映会が貴重なのだと、忙しい農作業の合間をぬって駆けつけてくれた。

 親戚からは「もうテレビには出ないで」と言われるが怯まない。今、何が起こっているのか現実を話し続けること、それ以外に双葉町を存続させる手立てはないと、鵜沼さんは思っている。「お金をもらったからって黙り込んじゃダメ。やましいことでも何でもない」。双葉町民へのメッセージだ。

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2020年頭のごあいさつ

あけましておめでとうございます。

東日本大震災から9回目のお正月です。徐々に年賀状に「おめでとう」と書く人も増えてきたように思います。

今年はいよいよ「復興五輪」。それに向けて常磐線も完全開通し、すべての町が避難指示解除となります。五輪と共に、福島原発事故からの復興は成し遂げられたかのように。

毎年この時期になると「帰れる場所」が増えていきます。今年の3月には双葉町の一部(双葉駅周辺)が解除になり、これですべての自治体の「全町避難」が解かれることになるのです。

あれほど「帰りたい」と言っていた人たちが、一時帰宅するたびに「もう住めないね」と諦め、違う土地に根を張ることを決める。諦め、そして踏み出す。その繰り返しだった8年余。双葉郡の復興は、そうした人々の歳月に報いるものになっているのでしょうか。

昨年『盆歌』という映画をみました。心は双葉に置いたまま、別の場所で暮らす人々。埼玉でも双葉の盆踊りが毎年行われていたけれど、ご先祖様も一緒に踊っていたのです。

その盆踊りと、双葉町の今の風景を重ねて、三分映像を作りました。

「帰れる場所」それは、もとには戻らない場所なのです。

 

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