原発の町の首長がおこした裁判、大詰めに

 国と東電を相手に原発事故の責任を問うてきた「福島被ばく裁判」。30回目の口頭弁論が9月18日東京地裁103号法廷で行なわれました。双葉町長だった原告の名前をとって「井戸川裁判」とも呼ばれるこの裁判は、9年にして最大の山場を迎えました。

 午前中には原告側の証人尋問、午後は原告への本人尋問が行なわれました。原告側代理人は解任されているため、井戸川さん自身が裁判の流れを作らなければなりません。そんな大変な法廷劇を見守りたいと、多くの支援者が傍聴に駆け付けました。
 
 証言台に立ったのは、事故当時、双葉町の社会福祉協議会の責任者で、その後副町長を担った井上一芳さん(77歳)でした。宣誓文を読み上げた後、原告の井戸川克隆さん、国と東電の代理人、裁判官からの質問に答えました。

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 3月11日、私は介護施設「ヘルスケア」にいました。50名の高齢者と、地震で避難してきた200名の町民の避難誘導をした。しかし役場職員による無線放送を聞いただけで、国や東電からの情報はまったく来ない。重度障がい者のための救助ヘリが来るというので、双葉高校のグラウンドへ連れて行った。その時、一号機が爆発しました。

 川俣町で最初のスクリーニングを受けました。何度も手と顔を洗わされましたが、ダメだったのです。検査官が希望する放射線量まで下がらなかったという意味です。
検査官に「着替えて下さい」と言われたが、着替えなど持っていない。上着を脱ぐことしかできない。10日間、放射能で汚染された服を着たままでした。

 原告(井戸川さん)・・・「猛烈な被ばくをしたそうですが、どうしてわかるのですか?」

 6月の町議会で、髪が薄くなったことを指摘されました。体毛がすべてなくなったのです。全身のだるさと疲れが酷く、色々な病院に行きました。耳下腺に腫瘍ができ、字も読めなくなりました。今も通院は欠かせず、一番心配なのは晩発性障害です。それなのに、被ばくに関する謝罪を受けたことが一度もありません。

 原告(井戸川さん)・・・原発事故によってどんな不利益を受けたか?

 すべてを失くしました。友をなくし、故郷をなくした。自分の家に入るのに、許可をもらわなくては入ることができないのです。

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 井上さんへの原告からの質問に対して、東電側の代理人は幾度か「誘導尋問です」と口を挟みました。そこに、詫びる姿勢はまったくありません。そして、井上さんに向けて「JR常磐線がすべて開通したのを知っていますか?」「双葉町に公営住宅や新庁舎が出来たのを知っていますか?」などの質問を続けました。「不利益ばかりでなく、利益もあったでしょう」と言いたいのは明らかでした。
「まもなく国際会議が開催できるホールが完成することを知っていますか?」と聞かれたとき、井上さんは語気を強めて応えました。「もちろん知っています。私なら作らせない。現地を知っているから」。


 
 賠償について聞かれ、井上さんは「今の賠償は20分の一でしかない」と答えました。「20mシーベルトで住民を住むことが出来るということが賠償額の前提になっているが、納得いかない。私が住みたいのは一ミリシーベルト以下の双葉町なのです」と、きっぱり言いました。
 すべての双葉町民の気持ちを代弁する証言だったと私は思います。

 もっと沢山の双葉の人たちに、井上さんの証言を聞いて欲しかった。それが叶わなかったことが、原発事故がもたらした悲劇だと思えてなりません。

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 午後は原告への本人尋問が行われました。事故当時、双葉町長であり災害対策本部長でもあった井戸川さんは、国と東電に嘘をつかれたために、町民の命や財産を守ることができなかったと主張し続けています。情報はすべて隠され、防災訓練マニュアルは絵に描いた餅だった。その後も国の基準の20倍以上で避難指示解除され、住民が無用な被ばくを強いられていることの違法性を訴えてきたのです。

 まず、裁判官から3月11日の行動を聞かれました。被害状況を確認するために奔走していたが、十条通報、十五条通報をファックスで受け取ったのみ。一号機のベントも10キロ圏内の避難指示も、国から伝えられたことはなかったと話しました。

 しかし、国と東電の代理人は、本筋に関わる質問を徹底して避けたのです。その代わりに、井戸川さんが興した水道会社「マルイ」や家族のこと、家賃が無料であることなどを言わせて、避難後の生活も不足がないような印象操作をしました。そして、井戸川さんが不信任決議を受け、町長を辞めるに至った原因を聞いてきました。井戸川さんは「自分の名誉にかかわること。簡単には答えられない」と返しました。

 住民からすべてを奪った加害者が、居丈高に被害者を追及しているのを、私は目の当たりにしました。被害者はこうやって加害者にさせられてきたのだと思います。
けれど、井戸川さんは堂々としていました。裁判長が「座って話していいですよ」と言っても、傍聴席に声が届くようにと終始立ち上がって陳述しました。この場にいる人の記憶にとどめてもらえるように。そう願っていたに違いありません。

 井戸川さんはよく「私を反面教師にしてくれ」と言います。それは、国も東電も真実を隠す、嘘をつくのを見抜けなかったことを指しています。すべての双葉郡の首長が共有化すべき悔しさを、井戸川さんはたった1人、背負ってきたのです。

 原発事故の責任を問う十年に及ぶ裁判。原発事故の歴史に何が刻まれるのか見届けたいと思います。
 結審は来年2月5日。判決は7月30日に言い渡されます。

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第五回「双葉の会」を開催します

今年の一月から隔月で始まった「双葉の会」も、好評のうちに5回目を迎えようとしています。
前回は、津波で流され一カ所に集めておいた墓石を町が処分してしまったこと、このことを福島の地元紙によって初めて知ったということが、双葉町民から出てきました。
大地震が全国各地を襲っています。地震の心配をする前に、原発の心配を。「大丈夫だ、動かすべきだ」と本気で思えますか?

第五回双葉の会では、原発事故当時、双葉町の町長だった井戸川克隆さんが、昨年12月に双葉町を訪ねた時の映像を上映します。
その他、美味しい料理や音楽も。
被災地ではなく避難先で、討論し交流する場です。初めての方もぜひご参加ください。

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第4回「双葉の会」を開催します

今年の一月から始まった、埼玉県加須市での交流会も四回目になります。初めての方も大歓迎。原発避難者の今を知るために、ぜひご参加ください。
車で来られる方は駐車スペースはたくさんあります。公共交通機関の方は駅まで送迎します。いずれにしてもご一報くださいね。

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双葉の会で能登の現状を話す

輪島市 朝市通りの焼け跡

珠洲市にある避難所に、加須市で作ったホウレンソウを届ける

今年の元旦、テレビに映し出された能登の惨状を観てからずっと、鵜沼さんは被災地に行きたいと言っていた。
五月の大型連休にその願いが叶い、私も同行させてもらうことになった。
第三回双葉の会では、映像を交えて被災地の報告をした。今回から埼玉県加須市の鵜沼さんの自宅敷地内にある倉庫が会場になり、30余名の人たちが参加した。

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私「志賀原発の前に立ったとき、どう思いましたか?」
久江「周りは隆起していたので、津波が来たけど大したことなくて済んだ。そして原発は動いていなかったので、運よく事故はまぬかれたと思う」。
そして「実はね、原発の前で写真を撮ったりしていたら、後からパトカーが追いかけてきて、私はじめて職務質問されたんですよ」
「だから言ってやったの。私は福島の被災者です。だから能登の人たちのことが気になってしかたないんですってね」
鵜沼さんは笑って言う。彼女はいつもそうだ。

私「双葉の人たちも13年前の震災のショックは大変なものだったと思う。能登の現地をみて、フラッシュバックしたりしませんでしたか?」
久江「私は皆さんの前で話をするとき、辛そうに話すのはやめようと思った。そうすると事実が伝えられないから。今の双葉町の現実の姿を知ってほしい。避難した人がどんな思いで生活しているか。そのために私は自分の感情は全部捨てた」

双葉町民の菅本章二さん

その後、二分間ずつ、参加した人たちに自分のことを語ってもらった。
双葉町から避難している菅本さんは「ぼくも双葉に一時帰宅するたび職務質問を受ける。警官に『うち、そこだけど一緒に行く?』って言うんだ」。菅本さんの家は、津波で跡形もない。昨年再建された八幡神社が、我が家の場所の目印になっている。

埼玉県内から初めて参加した男性は、能登の被災地の映像の感想を語った。「四ヶ月たったのにこの状況であることに驚いた。ここまで政府が何もしないことが今まであったか。この惨状をみたらボランティアや個人の努力で処理できるものではない」と声を震わせた。

話すのは苦手、という人もいる。でも、双葉の会は、自分の言葉でしゃべることに意味があるんだと思う。誰に何を言われたって構わないじゃないか。鵜沼さんは13年間の避難生活の中でそのことを学んだ。
どこまで強く、凄い人なのかと思う。双葉にいるのは沈黙する民ばかりではない。
そして、そこにこそ「復興」をはね返すような歴史が作られていくのだろう。

私はそれを見届け、記録する者として、鵜沼さんよりも長生きしなければ。

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「双葉の会」を5月18日に開催します

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自然の恵みを食べながら~第二回双葉の会を開催

ずらりと並んだ春のプレート

桜はまだ咲かないものの、好天に恵まれた3月30日。加須市の鵜沼さん宅で、第二回「3・11を忘れない双葉の会」を開催しました。初回を上回る人たちが参加して下さり、料理班は嬉しい悲鳴。利根川土手で摘んだ菜の花やゼンマイ、ニンニクの葉などを大鍋で茹で、よもぎ餅と一緒に提供したプレート料理に、皆さん大喜び。自然の恵みを堪能していただけたのではないでしょうか。私もふっと、双葉町の皆さんが「食べ物を買ったことなんてなかった」「山や畑で材料はすべてそろった」と言っていたことを思い出しました。

皆が集まる場所を提供して下さる双葉町の鵜沼久江さん(右)と堀切

旧騎西高校での最初の1年を記録した『原発の町を追われて』に続き、ライターの吉田千亜さんが取材した福島イノベーションコーストの報告。これは想像をはるかに超えた、驚くべき内容でした。
双葉町は復興の名のもとに、住民帰還に先駆けて、次々と企業が立ち並んでいます。双葉町長は「来てくれるなら誰でもウェルカム」という姿勢で、誘致する会社はさまざまなのですが、最近ドローンの会社がオープンしました。これには驚いたという町民もいます。
町民の驚きを裏付けるような話が、次々と出てきました。吉田さんによると、復興の名のもとにすすめられている柱は軍需産業。双葉町から浪江、南相馬市に至る浜通りには、ロボットテストフィールドやドローンの開発など、軍事技術開発への研究者が集められていると。故郷から人々を一掃し、戦争のための研究開発地帯にしていく。そこに、夢を抱く若者たちが吸い寄せられていく。
日本全体が「戦争のできる国づくり」へと、大きく舵を切ったということなのではないか。
双葉町の人たちにとって、否、双葉の人でなくても、あまりにも衝撃的な話でした。

吉田千亜さん

小池美稀さん

そして若い映像作家、小池美稀さんが制作した『福島を聴く見る測る~WILPFの福島レポート2023』。テレビが取り上げることのない、避難指示解除区域の現実に、参加者からは「ぜひ上映会をやって広めたい」という声があがりました。小池さんは大学の卒業制作で、チェルノブイリに行き、そこで福島のことを省みたそうです。
福島の放射線量、被ばくの実態を語ることはタブーとされています。そこに何十万という人が暮らしているのだからと言って。そのことが現実から目を塞がせ、まともな討論が出来ない状態にさせれらてきました。
この日に観た映像を、ぜひ多くの人に知ってほしいと思います。→「福島を聴く、見る、測る -2023-」https://youtu.be/gY-0bwLBzBI?si=RbjVZXQJmb-zYjBMBM

埼玉に避難した双葉町自治会の会長をしていた藤田博司さん

13年たって薄らぐどころではない原発政策の怖さ。それは、原発事故の被害地、原発が立地する町にとどまることではありません。
この国の行く末をあらためて考える一日になりました。
双葉の会、次回は5月18日(土)に開催する予定です。

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第2回双葉の会を開催します

加須市で避難生活を続ける鵜沼さんのお宅で、双葉町民を中心にした交流会を開いています。第2回は3月30日(土)。旧騎西高校での双葉町の人たちを記録したドキュメンタリー『原発の町を追われて第一部』も上映します。

双葉郡の皆さん、埼玉の皆さん、原発事故や避難者のことを考えたいという皆さん、どなたも大歓迎。ぜひご参加ください。

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復興の裏側~農業再開のカラクリ

 双葉町三宮地区に田んぼを持つAさんが言った。この田んぼが畑になる計画があるのだと。
農業法人に土地を貸すことになったので、地主や関係者を集めた説明会に参加したのだが、まったく最悪だったという。


土地の賃料は一反5千円(一年)という安さ。しかも水の使用料4千円は地主負担だそうなので、実質千円にしかならない。
問題はそれだけではない。「放射能が高いかもしれない土地なんて貸したくない。でも、断れば罰金とられるってナ」
なんと、放置料として年間30万円取られるという。抵抗すればさらに裁判費用がかかると。そんなバカな話があるかとAさんは憤る。

そもそも水田だったところが何故畑か。
双葉町の田んぼの水源は大柿ダムだが、ここが放射能で汚染されているのは地元では有名な話だ。大量の水をひかなければならず、双葉町では今のところ、水耕は無理だと考えている。
田んぼより畑の方が水の汚染の影響は少ないかもしれないが、それでも「双葉の野菜など誰も買わないだろう」と土地の所有者たちはいう。もちろん「双葉産」と言って売るわけではないから、消費者にはわからないというのだが。

太陽光パネルの事業も進み、遊ばせておくよりはいいだろうと土地を貸し出す人もいるが、太陽光パネルの寿命は10年。契約書の隅に「後始末は自分で」と小さな字で書いてあるのを見落としてはならないとAさんはいう。

Aさんは腕利きの宮大工だ。自分で建てた双葉の家は、基礎だけ残して津波で流された。その後は仮設住宅の建設や修繕の仕事に駆けまわってきた。数年前に埼玉県に自力で家を建て、双葉町より広い面積の田んぼを耕している。そんな彼が言うのだから、カネが欲しくて不平不満を言っているわけではない。ただ、どうしてこんなふうに次から次へと、被害者を弄ぶようなことが上から決まっていくのか。その悔しさが伝わってくる。

先祖代々の大事な土地が放射能で汚され、故郷を追われた。それ以上の不幸があるだろうか。その被害者たちを「賠償金もらった人たち」という印象操作で黙らせて、あとはやりたい放題だ。
あまりにも杜撰な原発事故の後始末。
うやむやにさせてはならない。

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語りつくせぬ思いを語れる場所を~加須市で『双葉の会』が始まる

 加須市には双葉郡から避難した人たちが、今も300人ほど暮らしている。住む場所は違えど、ここが第二の故郷だという人もいる。
13年たって、苦しみが減るならいい。でも震災体験、原発事故による心の傷は、時間が経過し世間が忘れたころに、突然表面に現れることがある。

 「双葉に帰れるようになったんでしょ」「もう避難者じゃないよね」
 よかれと思って言われる言葉だけれど、双葉の人は言葉に窮してしまう。なかなか自分の思いは、届かないものだなと。

 原発避難者は、まだまだ語り切れていない。復興は、形にできるような、わかりやすいものではないのに、目に見える建物や人数だけで計られていく。そんなものは復興でも何でもない。
双葉に帰りたくても帰れない、帰らない人たちが集まって、お茶を飲みながらしゃべる場が、コロナで中断されていた。でも、もう限界だ。
 何でもいいから双葉訛りでしゃべれる場をつくりたい。

 そんな思いで双葉町民、鵜沼久江さんが1月20日、加須市の自宅で『3・11を忘れない 双葉の会』を開催した。
 双葉の人が10名ほど、そして支援してきた人、脱原発運動をしている人、福島のことを知らなかったという人。様々な人たちが40名も集まってくれて、双葉町民が朝から台所でこしらえた煮しめやお汁粉を食べながら、一緒に時間をすごした。

 はじめてお会いする双葉町民もいた。避難した頃は小学生の息子さんを育てることで精いっぱいで、つながりを持つ余裕などなかった。当時、騎西高校には100名ほどの小中学生がいたが、加須市の学校に通った子どもたちの心中は、推し量ることができないものがあると彼女は話してくれた。

 映画『原発の町を追われて 十年』の上映の後、絵本の読み聞かせのコーナーがあったが、これがとてもよかった。

絵本作家の鈴木邦弘さん


 双葉郡を歩いて取材しているイラストレーターの鈴木邦弘さん。『いぬとふるさと』と、これから出版が予定されている『ずっとここにいた』を読んでくれた。人間がいなくなっても双葉町には、ずっと存在し続け、生き続けているものたちがいる。人として生まれた責任というものを、鈴木さんはずっと考え続けている。
 この絵本に描かれているのは「復興」の嘘くささを暴き出す双葉町の現実だ。双葉の人がみたらどう思うか心配だったと鈴木さんは言うが、参加した双葉町の女性は涙を浮かべて鈴木さんにこう言った。「私たちの思いを代弁してくれてありがとう」

絵本応援プロジェクトの山本潤子さん

 そしてもう一人、「絵本応援プロジェクト」の山本潤子さん(写真)による読み聞かせがあり、とても感じ入るものがあった。「絵本は歴史書でもある」と山本さん。災害から生まれた絵本というものが沢山あり、そこには事実が描かれている。

 3・11の年に作られた『あさになったのでまどをあけますよ』にはじまり、『福島からきた子』『このよでいちばんいちばんはやいのは』などを読んでくれた。

 彼女の声はおだやかで優しいけれど芯がある。血管の中に沁みわたっていくようで、読み聞かせとはこういうものなのかと感動した。作者の邪魔をしないよう、想像力を働かせられるよう、感情的にならずに読むことを心掛けているという。日々異なる場所で生きている人たちが、それぞれに考え、直接にではなくても言葉を紡ぎだしていくための手段があることを知った。

 双葉町の復興住宅から来てくれた人もいて『2023年の双葉町』の動画を流した。一昨年の10月に避難解除になった双葉町だが、問題は山積みだということも新たにわかった。世間の無関心をいいことに、被害者は置き去りにされている。

 復興なんて誰が信じているだろう。双葉を見捨てれば、災害に見舞われたすべての地域が見捨てられる。そのことを忘れてはいけないと思っている。

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※「双葉の会」の「双葉」は、双葉町だけでなく双葉郡の避難者との交流を目指していることと、成長のシンボルであることから命名しました。隔月を目標に、定例化していく予定です。

夜遅くまで話は尽きなかった

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信ちゃんの12年

 知らない女性からメールをもらった。
「10年前のDVDを送ってほしいです。避難者の「彼」が出ていると聞いたので」

 「彼」とは小池信一さんのことだった。予告編に出ているのを見たそうだ。
その小池さん(私たちは信ちゃんと呼んでいた)が、つい最近亡くなったというのだ。
女性は信ちゃんと、結婚の約束をしていたという。


2011年8月 はじめて騎西高校で話をしてくれた小池信一さん

 信ちゃんは私が最初の頃に出会った双葉町民である。2011年の8月14日、日付まで覚えているのは、その日が騎西高校のグラウンドで行われた盆踊りの日だったからだ。
 準備でわさわさしている昇降口で、気さくに話をしてくれた。信ちゃんは私よりチョット若かったが、故郷の話をしみじみ語った。それまで故郷の話をするのは、高齢者の人が多かったので、比較的若い彼の口からその話が出てくるのは新鮮だった。「ちょっと待って、今の話、すっごくいい。撮らせてもらってもいいかな」という私に、彼はちょっと照れながらも、よどみなく思いを語ったのだった。

 両親はすでになく、兄弟もいない。長いこと大熊町の焼肉屋で働いて、そこの社長さんに良くしてもらったというが、その人とも離れ離れになって、たった一人騎西高校にやってきた。
 「生まれたところで死にたいナ。生まれたとこでナ。生まれたところで変えたいナ。それはできないと思うけどネ」
 それから何度か、話を聞かせてもらったが、彼の故郷への思いは格段のものがあった

 そのころ、同じく双葉町から避難した書家である渡部翠峰先生が、騎西高校の中に書道教室を開いた。信ちゃんと私は生徒になり、机を並べるようになった。およそ書道とは無縁だった彼が、誰よりも熱心に通うようになった。
 故郷への思いは断ち切れるものではなかったが、放射能がゼロになるまで俺は帰らないよと言った。だからここで、仕事をみつけて頑張るんだと。そんな信ちゃんに、仕事はなかなか見つからなかった。

 事故からちょうど一年経った頃、原発事故の記憶は生々しいのに、再稼働の動きが出てきていた。私は信ちゃんを、首相官邸前の集会に誘った。何人かがマイクを握って演説していたが、避難者の信ちゃんに、何かしゃべってほしいと思った。案の定、彼は「何しゃべれっていうんだ」と照れていた。そりゃあそうだ。彼がマイクを握るなんてこと、カラオケ以外ではなかっただろうから。

 ところが、私がトイレに行っている間に、マイクで喋り始めていたのだ。驚いて夢中でカメラの録画ボタンを押した。「俺たちは故郷をなくされた」と彼は言った。頑張るしかないという彼に「どうすることが頑張るってことなの?」と聞いたことがある。「故郷には帰れない。でも、いつか帰るんだっていう希望をなくさないってことだナ」。そう信ちゃんは答えた。

 その後、信ちゃんは仕事が忙しくなり、ほとんど会うこともなくなっていた。ふと何年か前、電話をくれたことがある。持病が悪化して足の指を切断したと、とても辛いと言っていたのに、私は会いに行くことが出来なかった。
 そしてまた何年か過ぎ、信ちゃんの訃報を知った。

 知らせてくれたHさんによると、信ちゃんは足を切断し、加須市のアパートを引き払って施設に入っていたそうだ。そこの介護職員だったHさんと、信ちゃんは恋に落ちた。信ちゃんは、きついリハビリにも前向きに頑張ったという。Hさんを幸せにしたいと思う気持ちが、彼に生きる力を与えたのだ。
 それなのに、あまりにも突然、信ちゃんは逝ってしまった。

 「昔の信ちゃんが知りたい」というHさんに、撮りためた映像を送った。時を経て見る信ちゃんの映像は、私にも多くのことを思い起こさせてくれた。Hさんには双葉町のことはあまり話さなかったようだ。それでもHさんは信ちゃんの人生が、我慢の連続だったことを知っている。何よりHさんが「信ちゃんが歩いてる姿、初めて見た!」と言ったとき、何だかもう、こちらは胸がいっぱいになってしまった。

Hさんにお墓を案内してもらう

 「生まれたところで死にたい」と言ってた信ちゃんは、故郷から遠く離れた埼玉の、騎西高校から車で20分ほどのお寺に埋葬されている。焼き肉屋の社長さんが、荼毘に付してくれたそうだ。
 55歳。短いかもしれないけれど、避難しても病気になっても、諦めることなく、愛する人を見つけた信ちゃんは偉かったと私は思っている。

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