信ちゃんの12年

 知らない女性からメールをもらった。
「10年前のDVDを送ってほしいです。避難者の「彼」が出ていると聞いたので」

 「彼」とは小池信一さんのことだった。予告編に出ているのを見たそうだ。
その小池さん(私たちは信ちゃんと呼んでいた)が、つい最近亡くなったというのだ。
女性は信ちゃんと、結婚の約束をしていたという。


2011年8月 はじめて騎西高校で話をしてくれた小池信一さん

 信ちゃんは私が最初の頃に出会った双葉町民である。2011年の8月14日、日付まで覚えているのは、その日が騎西高校のグラウンドで行われた盆踊りの日だったからだ。
 準備でわさわさしている昇降口で、気さくに話をしてくれた。信ちゃんは私よりチョット若かったが、故郷の話をしみじみ語った。それまで故郷の話をするのは、高齢者の人が多かったので、比較的若い彼の口からその話が出てくるのは新鮮だった。「ちょっと待って、今の話、すっごくいい。撮らせてもらってもいいかな」という私に、彼はちょっと照れながらも、よどみなく思いを語ったのだった。

 両親はすでになく、兄弟もいない。長いこと大熊町の焼肉屋で働いて、そこの社長さんに良くしてもらったというが、その人とも離れ離れになって、たった一人騎西高校にやってきた。
 「生まれたところで死にたいナ。生まれたとこでナ。生まれたところで変えたいナ。それはできないと思うけどネ」
 それから何度か、話を聞かせてもらったが、彼の故郷への思いは格段のものがあった

 そのころ、同じく双葉町から避難した書家である渡部翠峰先生が、騎西高校の中に書道教室を開いた。信ちゃんと私は生徒になり、机を並べるようになった。およそ書道とは無縁だった彼が、誰よりも熱心に通うようになった。
 故郷への思いは断ち切れるものではなかったが、放射能がゼロになるまで俺は帰らないよと言った。だからここで、仕事をみつけて頑張るんだと。そんな信ちゃんに、仕事はなかなか見つからなかった。

 事故からちょうど一年経った頃、原発事故の記憶は生々しいのに、再稼働の動きが出てきていた。私は信ちゃんを、首相官邸前の集会に誘った。何人かがマイクを握って演説していたが、避難者の信ちゃんに、何かしゃべってほしいと思った。案の定、彼は「何しゃべれっていうんだ」と照れていた。そりゃあそうだ。彼がマイクを握るなんてこと、カラオケ以外ではなかっただろうから。

 ところが、私がトイレに行っている間に、マイクで喋り始めていたのだ。驚いて夢中でカメラの録画ボタンを押した。「俺たちは故郷をなくされた」と彼は言った。頑張るしかないという彼に「どうすることが頑張るってことなの?」と聞いたことがある。「故郷には帰れない。でも、いつか帰るんだっていう希望をなくさないってことだナ」。そう信ちゃんは答えた。

 その後、信ちゃんは仕事が忙しくなり、ほとんど会うこともなくなっていた。ふと何年か前、電話をくれたことがある。持病が悪化して足の指を切断したと、とても辛いと言っていたのに、私は会いに行くことが出来なかった。
 そしてまた何年か過ぎ、信ちゃんの訃報を知った。

 知らせてくれたHさんによると、信ちゃんは足を切断し、加須市のアパートを引き払って施設に入っていたそうだ。そこの介護職員だったHさんと、信ちゃんは恋に落ちた。信ちゃんは、きついリハビリにも前向きに頑張ったという。Hさんを幸せにしたいと思う気持ちが、彼に生きる力を与えたのだ。
 それなのに、あまりにも突然、信ちゃんは逝ってしまった。

 「昔の信ちゃんが知りたい」というHさんに、撮りためた映像を送った。時を経て見る信ちゃんの映像は、私にも多くのことを思い起こさせてくれた。Hさんには双葉町のことはあまり話さなかったようだ。それでもHさんは信ちゃんの人生が、我慢の連続だったことを知っている。何よりHさんが「信ちゃんが歩いてる姿、初めて見た!」と言ったとき、何だかもう、こちらは胸がいっぱいになってしまった。

Hさんにお墓を案内してもらう

 「生まれたところで死にたい」と言ってた信ちゃんは、故郷から遠く離れた埼玉の、騎西高校から車で20分ほどのお寺に埋葬されている。焼き肉屋の社長さんが、荼毘に付してくれたそうだ。
 55歳。短いかもしれないけれど、避難しても病気になっても、諦めることなく、愛する人を見つけた信ちゃんは偉かったと私は思っている。

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