元気農園での一コマ

 元気農園は、埼玉県に避難した双葉町民が、地元の人から借りた畑で野菜を作っていて、もう12年になります。
双葉にいたころ、畑作業は大半の人たちにとって当たり前。避難先でも小さな庭で野菜を育てる人は少なくないのですが、こんなふうに皆で集まれる畑があるのはいいことです。

 七月に入って間もない日曜。炎天下の中、キュウリが大量に育っていました。隣りのピーマンと比べてみれば、どれだけ大きいか、わかるでしょう。

 自転車で通りかかった地元のおじさんが「ずいぶんでっかいキュウリだなー」と声をかけてきます。
 口が達者な双葉町のFさんが返します。「スーパーで売ってるような細いキュウリは、うちの畑では作ってねえんだよ!」
 そんなやり取りにゲラゲラ笑っていたら、なんと私の車いっぱいに、オバケキュウリが積み込まれているではありませんか。Fさんの仕業だな。どうしよう・・・。

 キュウリ、ナス、ピーマン、シシトウ、ジャガイモ・・・天候不良で不作だと言いながらも、野菜たちは逞しく育ちます。これを販売できればよいのですが難しく、双葉の人たちが分け合ったり、ご近所に配ったりしているのですが、人手が足りません。12年の間に、畑に集まる人が減ってきたからです。

 埼玉の夏は、双葉の夏に比べると、えらく暑いといいます。汗だくになって作業を終えた皆と、持ち寄った漬物やお菓子を食べ食べ、たわいのない話が始まりました。

 「双葉の人は何だってまあ癌になる人が多いから。私ら避難してくるときに、たくさん浴びたんだと思うよ」
 「スクリーニングの時、あんまりに線量が高いから『原発で働いてたのか?』と聞かれた。俺は原発で働いたことなんてないよ」

 「最初の頃、一時帰宅でバスに乗って双葉に行くとき、線量計を身につけさせられたけど、えらく数値が高かった。もっとも双葉の人たちは、自分の家がどうなってるかしか考えてないから、放射線量なんて気にする余裕もなかったけどね。それから一年くらいしたら、線量計の単位がμ㏜からm㏜に変わってて、ほとんどゼロになったんだ。そんなことに気が付いた町民は、ほとんどいないけどね」

 「私たち、こういうとこで、こうやって話すしかないんだよ」

 「ガンと原発事故との因果関係はない」。甲状腺がんになった10代の若者に、医者はこう釘をさしたそうです。かけがえのない声が、権威によって潰されないように、小さな声を集めていきたいと思います。

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 ところで、問題のキュウリはどうなったでしょう。翌日、遠路はるばる浪江町の希望の牧場に届けました。
 牛たちの口に合うといいなあ。

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復活の碑

 日本の快水浴場百選に入る双葉海水浴場、浜野地区。浪江町の請戸に隣接するこの地域は、あの日、大津波にのみ込まれ、亡くなったり行方不明になった人が16名いる。
 この地区にある中浜八幡神社も流されたが、住民の強い願いによって2021年に再建された。

 そして6月4日。神社の前に『復活』の文字が刻まれた石碑が建ち、除幕式が行われた。梅雨の入口のこの日は、朝から見事に晴れ渡っていた。
 集まったのは、この集落の人たち、石碑づくりに協力した人、取材陣ら40人ほど。津波の犠牲者に黙とうをささげた。

 「復興が計画通りに進んだと実感できる。感謝申し上げる」という町長の言葉が代読された。この一帯は、家が跡形もなく流されたというのに、双葉町の中で最も放射線量が低く、いち早く立ち入りを許可されるようになった。企業の誘致がいち早く進み、伝承館やビジネスホテル、温泉施設までできた。地図は塗り替わったのだ。
 これらをみるたびに、復興とは何だろうかと思わずにはいられなくなる。ヨソモノの感傷にすぎないのだろうか。

 黒御影(くろみかげ)の石碑の裏の文字を揮毫しながら涙したと、加須市に避難している双葉町民の書家、渡部翠峰さんは挨拶で語った。中浜行政区長、高倉伊助さんの妻、さだ子さんが考えた文章だ。
 中浜で生まれ育ち、福島県須賀川市で避難生活を続ける高倉さんは、真っ黒に日焼けしていて67歳とは思えないほど若々しい。「みんなが協力し合い、結束した地区だったナ。それから負けず嫌い。俺たちは浪江町の請戸小に通ってた」 「双葉町の9割は手付かずなんです。我々の地区は「動ける一割」に当たるが、戻ってくることは不可能。帰れる場所じゃないね。でも、動ける場所だから動いて、できることで世話になった人たちに恩返ししなければね」と言う。
 石碑の隣にある「あずまや」は、ここを訪ねた人が世間話でもしてくれたらと思って建てたのだそうだ。

 津波で母親を目の前で亡くし、命からがら生きのびた菅本章二さんも、除幕式に参加していた。「今は原っぱだけど、ここは全部家だったんだよ。石碑が出来て、自分の家の目印ができてよかった」と満足そうだった。八幡神社の思い出を聞くと「夏休みとか、ここで同級生と勉強したんだ」という。神社を囲む竹林に風が吹き、さわさわと心地よかった。

『復活を願い』
 ここ浜野地区は、阿武隈の山並みを背に広がる、素晴らしい田園地帯であった。風光明媚で志木の色調変化の見事さは、自然とのつながりがみせる技といえる。
 2011年3月の東日本大震災により、14名の大切な命を亡くし、未だ全戸避難に至っている。
 このようなことが二度と起こらないことを祈るばかりである。
 災害時の注意喚起や勧告には素直に耳を傾け、命最優先の行動をとってほしい。
 いずれまたこの地に人々が根を下ろすだろう。
 自然と共に生き生きと息づく姿を思い描き、「復活」を願う記念碑を、ここに建立する。

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いのちについて 小出裕章さんが書いていたこと

レイバーネットТVのスタジオ

 4月12日、レイバーネットTVで元京都大学原子炉実験所の小出裕章さんをお呼びし、「原発回帰ホントにいいの?」という特集を放送した。

 レイバーネットTV放送はこちら

 国が避難指示を出した区域が、12年の間に次々と解除になり、人が戻されている。しかし、放射能は事故前に戻ったわけではない。
 かつて小出さんが、被ばくの対価としての報酬をもらって仕事をした放射線量と同じ基準で、子どもを含む人々が生活させられている。これは棄民政策だと小出さんは語った。
 福島第一原発が今どういう状況なのか、なぜ汚染水を海に流そうとしているのか、そして、事故の責任をとらないどころか人々を欺き、原発政策に大きく舵を切るこの政治下で、自分がどう生きようとしているのか。死生観にまで踏み込んだ話は、すでに講演や著書で小出さんを知っていた私も、強く心を揺さぶられるものだった。放送は大きな反響があり、たくさんの感想が寄せられている。

小出裕章さん

 小出さんは「こうすべきだ」とは言わず「私はこう思う」と言う。人は一人一人生きていて、違った人間たちだ。さまざまな人たちから、よくも悪くも影響を受ける中で、自分の生き方を決め、それに誠実に生きることしかない。限られた短い人生、それで十分なのかもしれない。

 驚いたことに放送終了後、小出さんがスタッフ宛にメールを下さった。そこに「レイバーネットTVでは、原子力や福島事故のことだけでなく、子どものことまで口にしてしまい、余計なことだったと反省しています。でも、生き方そのものについてお受け止めくださったようで、感謝します」という一文と共に、1990年に書いた文章が添付されていた。
 これは小出さんの著書「放射能汚染の現実を超えて」(北斗出版、河出書房新社)におさめられているものだが、ふたたび多くの方々に触れてもらいたいと思い、ご本人の許可を得た上でここに紹介する。

 私はこの文章に、今とても勇気づけられている。

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生命の尊厳と反原発運動

【人類は自ら蒔いた種で、遠からず絶滅する】
 五十億年近いといわれる地球の歴史の中で、人類といえる生物種が発生したのはわずか数百万年前のことである。その人類は自らの生物種が属する類を、「霊長類」と名づけ、そして自らのことを「万物の霊長」と名づけている。しかし、人類の種としての絶滅は、いまやはっきりと目に見えるようになってきた。

 過去二〇〇年ほどの間に科学技術は急激に進展し、浪費も拡大した。その歴史は、人類の種としての生存がそれほど長く続かないことを示している。核戦争、原発事故による放射能汚染、その他の化学物質による汚染、資源やエネルギーの浪費による環境の破壊、それらのいずれもが人類の絶滅をもたらす力を持っている。何が決定的な絶滅の要因になるかは断定できない。しかし、人類の生存可能環境を人類自らが失わせるまでに、どんなに長くとも一〇〇年あるいは千年の単位であることは疑えない。結局、人類の今後の生存期間は、数百万年という過去の生存期間からみれば、いずれにしても誤差の範囲でしかない。

 中世代に地球を征服していたといわれる恐竜は、ある時期に突如として地球から姿を消した。「万物の霊長」たる人類からみれば、巨大であっても、まことに頭の悪い野蛮な動物であったというのが一般の見方であろう。しかし、その恐竜たちは一億年にわたって種を維持していたのである。恐竜の絶滅の原因については現在でもさまざまな議論が続いている。それを、宇宙からの巨大な隕石落下に求める説もあるし、進化の過程で巨大化しすぎ自らの生命体を維持できなくなったためとする説もある。しかし、恐竜からみれば、いずれにしても万やむを得ない過程を経て絶滅にいたったのである。それに比べ、人類の絶滅の決定的な要因は、人類が自ら蒔いた種によるのである。まことに自業自得というべきであるし、人類は恐竜以上に愚かな生物種であったというべきだろう。

【人類が絶滅しても、地球は新たな生命を育くむ】
 現在世界には一万七〇〇〇メガトン、広島の原爆に換算すれば、一四〇万発分の核兵器が存在している。それが一挙に使用されることになれば、ほとんどの人々が即死、あるいは短期日のうちに死亡する。また、かりに直撃を受けず生き残っても、訪れた「核の冬」のもとで、じわじわと生命をむしばまれていく。複雑な遺伝情報をもった人類が、放射能汚染のもとで種として生き延びることも、できそうにない。

 一九七九年に米国のスリーマイル島原子力発電所で大きな事故が起こった。当初、原子力推進派は原子炉の心臓部である炉心は熔けていなかったと主張していた。ところが最近では、炉心の約半分が熔けてしまっていたこと、最後の砦である圧力容器にもひび割れが入っていたことなどが明らかになってきた。その原発の安全担当者は「何が起こっているのか、もしあの時運転員に分かっていたら、彼らはあわてて逃げ出していただろう」と、事故後七年半を経て語っているのである。まことに原子力発電の事故は、人知をこえて展開するのである。しかし、この事故の調査の過程で、一般には知られていない、そして、はるかに重要で驚くべき事実が明らかになった。

 圧力容器の蓋があけられ、水底深く沈んでいる破壊された燃料の取り出し作業が始まった。しかし、作業を始めたとたんに、うごめく物体によって中が見えなくなってしまったのである。そこは、人間であればおそらく一分以内で死んでしまうほど強烈な放射線が飛び交っている場所である。「さながら夏の腐った池のようだった」と作業員が報告したその物体とは、なんと生きものであった。単細胞の微生物から、バクテリア、菌類、そしてワカメのような藻類までが、炉心の中に増殖し繁茂していたのである。それを発見した作業員の驚きと、戦慄は察して余りある。結局、作業を進行させるために、過酸化水素(薬局ではオキシドールとして売っている殺菌剤)を投入して、その生きものは殺される。しかし、一度殺されたはずのその生きものは驚異的な生命力で再三再四復活し、以降何ヵ月にもわたって、作業の妨害を続けるのである。人間からみれば、ぞっとするほどの恐ろしさである。しかし、どんなに強い放射能汚染があっても、新しく生命を育む生きものたちが存在していたのである。生命は、人間の想像をはるかにこえてたくましかった。

 しょせん人類などは宇宙や地球の大きさや広さからすれば、まったくとるに足らないものでしかない。人類がこの地球上から絶滅しても、宇宙の運行はまったく変わらずに続くに違いない。また、人類が自らのものと錯覚してきた地球も、人類がいなくなったところで、何事もなかったかのように、また生命を育むのである。地球上には五〇〇万種とも一千万種ともいわれる生物種がそれぞれの生活を営んできた。人類はこれまでにも、それらのうちの数多くの生物種を絶滅に追い込んできた。そして、自らの絶滅の過程においてもまた、多くの生物種を巻き添えにする。そのことはまことに申し訳ないことだと思う。しかし、人類という生物種がいなくなった地球は、生き残った、あるいは新たに生まれた生きものたちにとって、今日よりももっともっと住みやすいに違いない。

【反原発の根拠】
 すでに四年の歳月を経てしまったソ連のチェルノブイリ原子力発電所の事故以降、世界各国において原子力に反対する運動が高揚した。そして、日本というこの国においても、多くの人たちが、事故の恐怖を理由に立ち上がった。およそすべての運動は、抑えても抑えても内部から沸き上がってくる要求に突き上げられた時に、はじめて力を得るものである。反原発運動の高揚も、そのような力に突き上げられたものであると思う。しかし、運動の展開の中で、私にはどうしても受け入れられない動きもあった。そのもっとも端的なものは、汚染の強いソ連やヨーロッパの食べものを日本国内に入れるなと、行政に規制強化を要請する運動である。

 人類は、他の生きものたちとの比較でいえば高い知能をもった生物としてこの地球上に現れた。その結果、自らを絶滅させるに足る程度には、さまざまな知識や技術を蓄えてきた。しかし、ごく当たり前のこととして、人類にはできないことも無数にある。たとえば、原爆や原子炉によって人類は放射能を生み出すことはできるようになったが、一度生み出してしまった放射能を消すことができない。チェルノブイリの事故で、人類の生活環境にまき散らされた放射能の量は、広島の原爆がまき散らしたそれに比べて、千五百倍にもなるのである。また、人類には時間をもとに戻すこともできない。もし私に時間をもとに戻す力があれば、なんとしても四年だけもとに戻し、チェルノブイリの事故がなかったことにしたい。しかし、できないのである。時間を元に戻せない以上、私たちは汚れた環境の中で汚れた食べものを食べながら生きる以外にすべがない。

 放射能は人間の手でなくすことができない。煮ても、焼いてもなくならない。日本国内に入ることを阻止できたとしても、当然、放射能はなくならない。放射能で汚染した食べものもなくならない。日本と日本人が拒否した食べものは、他のどこかで、他の誰かが食べることになるだけである。どこで、誰で食べることになるのか、想像してみてほしい。私には、それが原子力の恩恵など一切受けず、そして飢えに苦しむ第三世界であり、そこに住む人々であることを疑えない。一方、日本とは、現在三十八基もの原子力発電所を利用し、世界でももっともぜいたくを尽くしている国である。そして、その日本は世界がいっせいに原子力から撤退しようとしている今もなお、先頭になって原子力を推進すると宣言している国なのである。

 現在世界には約五十億の人間が住んでいる。それを四つのグループに分けて考えよう。そのうちのもっともぜいたくなグループは、いわゆる「先進国」と呼ばれる国々である。幸か不幸か日本もその中に入っている。そのグループは世界全体で使うエネルギーの八割を奪い去り、使ってしまう。次のグループはいわゆる「開発途上国」であり、残されたエネルギーのうちの六割(全体のうちでは約十二%)を使う。残されたグループはいわゆる「第三世界」に相当するが、その中でもエネルギーの取りあいがあって、もっとも分け前の少ないグループ、「極貧の第三世界」は全体の二%のエネルギーも使うことができない。彼らの中には飢えが広がり、現在二秒に一人づつ子供たちが餓死しているというのである。日本に住む私たちには自分の子供たちが餓死していくということは、ほとんど想像すらできない。しかし、できるかぎりの想像力を働かせて想像してみてほしい。自分の目の前で、自分の子供たちが「餓死」していく姿を。

 餓死していく子供たちとそれを見つめる以外にない親たちを、私たち日本人は「かわいそう」というべきでない。なぜなら、子供たちを餓死に追い込んでいるのは、不公平をかぎりなく拡大させてきた「先進国」であるのだし、その中で、「豊か」で「平和」な世界を満喫してきた他ならぬ私たち自身なのである。

【生き方の中にこそ生命の尊厳はある】
 人類はいずれ絶滅する。生物として当然のことである。恐れるべきことでもないし、避けられることでもない。それと同じように、一人ひとりの人間も、どんなに死を恐れ、死を回避しようとしても、いずれ死ぬ。一人の人間など、ある時たまたま生を受け、そしてある時たまたま自然の中に戻るだけである。人間の物理的な生命、あるいは生物体としての生命に尊厳があるとは、私は露ほどにも思わない。もし人間の生命に尊厳があるとすれば、生命あるかぎりその一瞬一瞬を、他の生命と向き合って、いかに生きるかという生き方の中に、それはある。

 原子力に反対して活動している人たちの大きな根拠の一つに「いのちが大事」ということがある。しかし、「いのちが大事」ということだけなら、原子力を推進している人たちにしても否定しないだろう。決定的に大切なことは、「自分のいのちが大事」であると思うときには、「他者のいのちも大事」であることを心に刻んでおくことである。自らが蒔いた種で自らが滅びるのであれば、繰り返すことになるが、単に自業自得のことにすぎない。問題は、自らに責任のある毒を、その毒に責任のない人々に押しつけながら自分の生命を守ったとしても、そのような生命は生きるに値するかどうかということである。

 私が原子力に反対しているのは、事故で自分が被害を受けることが恐いからではない。ここで詳しく述べる誌面もないし、その必要もないと思うが、原子力とは徹底的に他者の搾取と抑圧の上になりたつものである。その姿に私は反対しているのである。

 もちろん私も放射能など決して食べたくない。しかし、私たちは自ら選択したか否かにかかわらず、少なくとも現在日本というこの国に住み、原子力の電気をも利用している人間である。現に原子力の恩恵を受けている私たちが、結果としてであれ、汚染だけを第三世界の人々に押しつけることになる選択をすることは、原子力を廃絶する道とは相いれない。今日存在している多様な課題を乗り越えるための唯一の道は、それらの一つひとつと取り組んでいる多様な運動が、根元的な地平で連帯することである。その連帯を可能とする原則だけは、なんとしても守り抜かなければならない。

 ソ連やヨーロッパの汚染食料については、日本国内にどんどん入れるべきである。その上で、いかにすれば自らの責任を少しでもはたし、責任のない人たちに少しでも犠牲をしわ寄せしないですむかを考えること、そして現実の中で一つひとつ選択することこそ、いま私たち日本人に求められている。私は、日本の子供も含め世界中の子供たちに汚染食料を食べさせたくない。しかし、私自身はこの日本という国に生きる大人として、それなりの汚染を受ける責任があると思っている。チェルノブイリ事故後、私は敢えて汚染食料を避けない生活を続けてきた。今後もそのつもりである。そうすることで、現実の汚染が消えるわけではないし、世界の差別全体が解消されるわけでもない。当然、私の苦悩が消えるわけでもない。世界に苦悩があるかぎり、個人の苦悩が消えることなどありえない。世界がかかえる問題に向き合って、いわれない犠牲を他者に押しつけずにすむような社会を作り出すためにこそ、私の生命は使いたい。そして、そのような社会が作り出せたその時に、原子力は必然的に廃絶されるのである。

(一九九〇・二・二十六) 小出 裕章

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「福島にだけ負担を押し付けるな」という欺瞞


  • 福島第一原発事故で出た放射能を含む汚染土壌を再利用する。その実証実験を計画が浮上している。
    昨年末、東京・新宿御苑や埼玉県所沢市がその候補地に挙げられたことがわかった。再利用できる基準は8000㏃/㎏以下。住民が不安に思うのは当然だ。
    しかし環境省はきちんとした説明を行うことはなかった。地元の人たちの大半が、テレビや新聞でみて驚いたという。

 

 

 集中管理しておかなければならない汚染土を、なぜばらまくようなことをするのか。
さっそく住民は立ち上がり、環境省や自治体への申し入れ、住民を集めての学習会が行われた。
新宿御苑は子どもたち、外国人、そして野宿者と多くの人たちの憩いの場所だ。そこにあえて汚染土を持ち込み、花を植えるという。
一月下旬、新宿御苑にやってきた人たちにスタンディングで訴えると、皆驚いていた。

1月下旬 新宿御苑前でスタンディング

 

 

 

 

 

 

 

所沢市では保育園の間近が候補地だ。市長はそのことをわかって了解したのか。上から言われたことは決定事項として受け入れることしかできないのか。
問いかける市民を前に、所沢市長は「住民の意向を尊重する」とした上で「福島の人にだけ負担をおしつけるわけにはいかない」と言ったそうだ。

所沢市小手指公民館に集まった人々

福島の人たちは、汚染土の拡散をどう思っているのか。2月24日、所沢市の公民館で満田夏花さんの学習会が開催された。そこに集まった100名の住民を前に、鵜沼久江さんが訴えた。鵜沼さんは原発の間近で暮らし、中間貯蔵施設に土地の一部を提供した双葉町民だ。

 

所沢市民にエールを送る鵜沼久江さん

 

 

 

「環境省は『地権者の意見は聞きましたよ』といいますが、何を言っても聞いてくれたことはありません。中間貯蔵施設のために土地を提供した人は皆、同じ意見だと思います。地元のお前たちが責任をとれといわれ、原発の近くに土地があるから、核のゴミはここで引き受けるしかないと覚悟したんです。それなのに、これからあちこちに持って行って実証試験。とんでもないことです。国は勝手すぎますよ。地権者の意見を聞くでもなく勝手に決めて、汚染土を置かれたらもう帰れないと覚悟して、私たちは(中間貯蔵施設を)了承したんです。

「30年たったらもとに戻すなんていいますけど、これも上から決めたこと。私たちは30年たったらどこかへ持って行ってくれなんて言いませんでした。中間施設では汚染土を置いて、数年後に盛り土をしました。下に貯まった土は除染したわけではなく、そのまんまです。ですから30年後に土地を返されたとしても、そのあとどうしたらいいのかわかりません。30年後、娘は70歳、孫は40歳。返されても困ります。

「所沢市長に今日はお会いしたかった。福島では放射能問題でどれだけ苦労させられたか。子どもたちは虐められましたね。大人たちは会社に行けなくなりました。そんなに簡単に物事を引き受けないでください。中間貯蔵施設を受け入れて、双葉町長や双葉町議はどれだけ賄賂を貰ったんだろうって話になっています。所沢にはどれだけのお金が動いたんだろうねって、そう言われますよ

「もし所沢が引き受けるようになったら、汚染土は全国に持っていかれます。どんなことをしてでも反対してください。私たちは持っていけとは言いませんから。絶対に頑張ってほしい」

鵜沼さんの話の後、会場からは次々と手があがった。福島のことは他人事でなく、自分の問題になったという声もあった。「所沢の住民は本当に頑張らなければ未来がなくなってしまう」そう泣きながら訴える人もいた。

原発に絡むすべてのことが、住民の声を無視して勝手に進められてきた。そして住民には分断という現実ばかりが遺された。今こそ、終止符を打たなければ。

福島の人たちと連帯して、何としても汚染土の拡散を止めたいと思う。

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「汚染水海洋放出反対!福島の未来を守れ!」浪江町の漁港でエールを送る

請戸漁港

2023年のはじまりに、私は福島県浪江町の請戸(うけど)を訪れた。今年は、福島第一原発からの汚染水が、海に放出されようとしている。請戸漁港は福島第一原発から6キロ。影響は計り知れない。

1月2日朝8時。たくさんの人が海の安全と豊漁を願い、出初式に集まっていた。
神事の後、吉田栄光・浪江町長が「処理水の大量放出など大きな課題に直面しているが、請戸ブランドを後世に残したい。全国に避難している浪江町民が請戸の鮮魚を口にし、町の人口が増えていくよう、漁業に期待している」とあいさつした。

船が出港していくのに合わせて「軍艦マーチ」が流れた。その音楽に入り混じるように聞こえてきたのが「ゴジラのテーマ」、そして聞き覚えのある、あの声だ。
「浪江の人たちは、これからも海の魚を買って食べるだろう。それなのに、汚染水を放出していいのか。汚染水は安全安心だという嘘っぱちの宣伝に、黙っているわけにはいかない!」
浪江町の牧場主、吉沢正巳さんが訴えていた。
「1980年、請戸のホッキにコバルト60が見つかり大問題になった。浜通りのホッキは売れなくなって、5億円の賠償が出た。そんなことをまたくりかえすのか」
「漁師の皆さんも一緒に頑張ろう!これからも福島の魚が食えるように、俺たちも応援します。放射能汚染の魚が出ないように、みんなで力を合わせようじゃないか」

浪江町「希望の牧場」の吉沢正巳さん

郡山市などから集まった人たちと一緒に

かつては150層の漁船、民宿もあって賑やかだった漁場である。2011年3月11日に津波が押し寄せ、たくさんの人が犠牲になった。波が引けて消防団が救出しようにも、原発事故によって立ち入り禁止になり、助けを求める声が聞こえても助けに行けなかった。その無念を忘れていいのか。

汚染水を放出するための海底トンネルが、1キロの長さに延びているのが見える。海底から泉のように湧き上がる状態にし、どこが汚染水の出口かわからないようにするのだろうと、吉沢さんはいう。責任の所在を曖昧にしてきたことが、ここにも貫かれている。

崖の先端から一キロにわたって海底トンネル工事が進む。今年の夏に、汚染水が流される予定になっている。

浪江町の議会では、放出反対の決議が上がっているそうだ。でも、漁協では声をあげられない。「原発まぶりだ」と吉沢さんはいう。
「まぶりって何ですか?」と聞くと、寒いから囲炉裏にあたって暖をとることを「まぶる」というのだそうだ。「原発にまぶって、おいしくなるのを待ち望む、そんな精神構造の地域になってしまったんだ」

北茨城の大津漁港では、100ベクレルを超えたシラウオの加工品が販売されていたことを、漁協の職員二名が内部告発した。その人たちは解雇されたが、解雇撤回の裁判を起こしたのだと、吉沢さんは教えてくれた。

当たり前のことを言う、地元で声をあげる、当事者が闘う。全力でそれを支えたいと思った。

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郡山市での上映会

『原発の町を追われて・十年』が初めて、福島県で上映された。10月29日、郡山市に在住の黒田節子さんが企画してくれたのだ。

その前日、黒田さん達が仲間たちと続けている、郡山駅前の金曜行動に参加した。首都圏で「原発反対」を叫ぶよりも、福島県でやるのは大変なこと。「通行人からは『まだ言ってんのか』と罵声を浴びせられることもあるよ」と黒田さん。批判も論争を期待していたが、広い広い郡山駅前。マイクでアピールしても、歌を歌っても、足を止める人はほとんどいない。ファンキーな10代の少年たちが遠巻きに見ながら、ちょこっと相手をしてくれたけれど。
モニタリングポストは0.12μ㏜。これが日常にすっかり溶け込んでいるようだった。

郡山駅前で脱原発を訴える

田中信一さんと制作者

翌日、市内にある「ミューカルがくと館」には、25名ほどの人たちが集まってくれた。その中に、双葉町民の鵜沼久江さんと田中信一さんがいた。二人とも映画に登場してくれていて、鵜沼さんとは何度も一緒にトークをしてきたが、田中さんが上映会に来るのは初めてだ。数年前から郡山で暮らしていて「ついに郡山で上映会やることになったよ」と電話したら、「そんなら行くか」と。
田中さんは旧騎西高校に双葉町民1400人が避難した時に出会い、初めて撮影を許してくれた人だ。
双葉町は原発事故後、井戸川克隆町長(当時)の判断で埼玉に役場を移したが、「なぜ福島県外なのか」と反発する町民も少なくなかった。埼玉にとどまる町民も多い中、福島に戻る人もいて、田中さんもその一人だった。
双葉町は二分化され、福島県内と県外の町民が交流することは難しくなった。人は自分のいる場所に順応して生きていくものだから。

鵜沼さんは埼玉県で野菜を作って生計を立てている。その一方で、双葉町での農作物の実証実験に参加するため、福島県に行くことが多い。一歩福島県に入ると、放射能や被ばくのことを話しにくいと言っていた。「埼玉じゃなくて、福島で農業やればいいじゃないか」と言われることも一度や二度ではない。
だから、福島県内でこの映画がどうみられるのか、鵜沼さんは心配だったに違いない。

上映が終わり、車座になった。「福島に残った人も、ご苦労なさいましたよね。それが聞きたくて、今日は郡山に来ました」と鵜沼さん。

田中さんが口火をきる。「郡山に車で10回。家族10人で転々とした。避難先で虐められる話をよく聞くが、それはおかしなことだ。何も悪いことをしたわけじゃなく、好きで逃げてきたのでもない。堂々と生きていけと、子どもや孫に仕向けてきた」。彼の家は福島第一原発から3キロのところにあり、中間貯蔵施設のために解体された。人生のすべてをつぎ込んだ我が家を失った後も、田中さんは腐ることなく、自分の人生を生き抜いている。

鵜沼さんは、双葉町に置いてきた牛たちを、いずれは埼玉に連れてくるつもりだった。その体力を維持するために、がむしゃらに働いたが、地元の人から「双葉町は出ていけ」と言われ続けた。委縮してしまう人も多いが、鵜沼さんの思いは「ふざけんな」だった。「好きで避難してきたわけじゃない」。県内いる人も県外にいる人も、共通の思いなのだ。

二人の話が呼び水になったのか。浪江町の男性が話し始めた。
「放射能の影響はないというけど、浪江町の一本松を、京都の大文字焼に使わなかったんだぞ。福島の電気、誰が使ってんだ。なんで石ぶつけれらなくちゃならないんだ。自分さえ良ければいいっていう連中ばっかりなんだよ。もっと人のこと考えることのできる人間がいてほしいと思うよ。アンマリじゃない?原発事故さえなければ、故郷を捨てて逃げるかって。最終処分もできないような原発やってきたんだ」

そして参加者が次々と思いのたけを語り始めた。溢れ出してくる、という感じだった。ひとりひとりに11年の体験があって、誰かが話せば、自分の思いをシンクロさせることができるのだ。
自民党の議員さんもご自身の体験をまじえ「福島では『触れちゃいけない』と思われていることが多い。でも『こういうことがあったんだ』と言わないと伝わらない」と話してくれた。
もっともっと垣根を超えていきたい。福島でこの映画を上映する機会をつくりたいと、強く思う。

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原発と国葬


 9月27日に、安倍元首相の国葬が行われました。反対の声は日に日に増え、安倍さんを弔うという雰囲気にはなるどころか、国論は二分されました。
 反対を押しつぶして強行するのは、この国ではよくあることです。安倍氏は生前、たくさんの嘘をついてきましたが、その最たるものが「汚染水はコントロールされている」と言って五輪を誘致したことでしょう。
 国葬翌日の28日、レイバーネットТVで「アンダーコントロールと言って消えた人」と題する特集を放送しました。国葬反対デモを呼び掛けたルポライター・鎌田慧さんと、福島県浪江町で「希望の牧場」を営む吉沢正巳さんがゲストです。吉沢さんは『原発の町を追われて・十年』にも登場し、復興五輪なんてやめちまえ!と叫んでいますが、国葬の当日も国会前に駆け付けました。
 国葬と原発は、とても似ていることが、この放送をご覧になるとよくわかります。
https://www.youtube.com/watch?v=OFJ2obTnLd8

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解除になった日

 双葉町が一部避難指示解除になることを、私は7月半ばの新聞記事で知った。2022年8月30日午前零時。解除になる日を、町民の人達はどんな思いで迎えたのだろう。

 今回解除になるのは「特定復興再生拠点区域」といわれる町の中心部で、全面積の1割にあたる。ここには半数以上の人たちが暮らしていた。しかし、帰れるようになったといって手放しで喜ぶ人は少ない。何しろ、人が住まなくなって11年5カ月たっているのだから。双葉駅前はきれいになり、新しい町役場もオープンしている。けれど、すでに家を解体して更地になった場所も多い。崩れたまま残された建物もある。

双葉駅周辺の解除区域。更地になったところが多い

 それでも、歴史的な日になるのは間違いない。8月29日夜、埼玉に避難している双葉町民と3人で、双葉に行った。復興再生拠点区域は、すでに道路も通れるようになっていて、準備宿泊している人もいる。とっくに解除されているようにみえるが、正式に暮らせるようになるのはこれからだ。

「駅前広場で何かやるらしいけど、おそらく報道の人ばっかりだろうね、普通だったら、ゲートを開ける瞬間を撮影するんだろうけど、ゲートなんてとっくにないから。どうするんだろう」・・・そんな話をしながら、高速道路のインターチェンジを降りて、真っ暗な道を走る。ほどなく双葉駅前に着くと、そこは、たくさんのキャンドルに彩られた世界だった。まるで都会のイルミネーションのようだ。

 マスコミが多いのは予想通りだったが、若い人や子どもまで大勢集まっていた。双葉町の人はほとんど見かけない。それでも声をかけてみると、キャンドルプロジェクトのメンバーや、町の観光協会の職員が、双葉町の復興を応援しているのだという。

 その中の一人に声をかけてみた。昨年はじめて双葉町に来たのだという。私が「原発事故の翌年に来た時は、防御服を着て車の中からみるだけしかできなかったんですよ」と話すと驚いていた。「復興への第一歩」というが、解除の条件をみると「空間放射線量20ミリ㏜/年以下」と明記されている。駅前のモニターは0.143μ㏜/hを示すが、それ以外の放射線量はわからない。

キャンドルに書かれたメッセージの中のひとつ

 ステージ上には双葉町の映像が映し出され、双葉町消防団の隊員が、事故前の楽しい思い出話をした。伊澤町長も挨拶。「双葉町はアリーナから騎西高校へと町役場を移し、大変な思いをした。今回解除になり、まだまだ足りないところはたくさんあるが、避難した時の大変さを思えば、何とかなるんじゃないかと思っている。移住者も含め、住んで良かったと思ってもらえるように努力したい」。

挨拶する伊澤史郎双葉町長

 受付を担当していた双葉町の男性は「帰るという選択肢はない。小さな子供が二人いますから。ここは病院も学校もまだないし」という。ステージでトークを盛り上げていた消防団隊員、福田一治さん(51)は「同じ行政区でも、解除になったところとならなかったところがある。一体だれが決めたんだか知らないけどね。消防団で自分たちが守って来た区域なのに」とこぼした。「自分ちは今回は解除されなかった。解除されてたら万々歳だけどね。でもさ、解除されたら戻るかって言ったら、それはできない。家は3・11のままで、・・もうだめだよ」と語ってくれた。故郷に戻るんだと、それだけを口にして亡くなった町民の顔が思い浮かぶ。やっとその日が来たというのに、いったいこれは誰のための、何のための解除なのだろう。

 伊澤町長はこうも話した。「町を存続させるお金があったら、避難生活に回してほしいという声もたくさんあった。それでも町の行政機能を維持しなければ、国からの支援は受けられなくなる」と。しかし、町民の思いはそれとは違うようだ。東京に避難しているHさんは「今回の解除で『あんたたちは避難民じゃない。勝手に避難してるだけでしょ』っていう扱いになるんだ」と言う。放射能の危険から身を守るために、国からの指示が出なくても避難した、いわゆる「自主避難者」と同じになるのだと、Hさんは思っている。

30日午前10時には防災式典が行われた

 夜が明けると、駅前で防災式典が行われた。新たな生活を始める人々の安全を誓って、消防車とパトカーがサイレンを鳴らして出動していった。今回の解除で、準備宿泊を終えた10世帯ほどの住民が町に暮らすことになるという。駅西側に復興住宅が建設されていて、10月には入居がはじまる。原発でトラブルがあった場合はどうするのか、伊澤町長に聞いた。「3・11クラスの地震があっても、再臨界はしないと専門家から聞いている。万が一何かあった場合も、住んでいる人は少ないから、簡単に避難誘導できる」というのが答えだった。

役場新庁舎のとなりに、イオンの移動販売車がやってきて、菓子パンやお弁当を売っていた

 解除にならない「帰還困難区域」も、双葉町にはまだたくさん残っている。埼玉から参加した鵜沼久江さんの集落は、中間貯蔵施設に持っていかれてしまった。鵜沼さんの自宅は、ぎりぎり中間貯蔵施設との境目にある。帰還の目途どころか除染もされていない。それでもいつかは町に戻りたいと思っているが、今回の解除イベントをみてがっかりしたという。「キャンドルはきれいだったけど、国の大臣が挨拶にも来ないなんて。町民の現実をもっとみてほしかった。中間貯蔵施設を受け入れた町の扱いってこんなもんなの? 双葉町民は捨てられたという気持ちになる」(鵜沼さん)

 解除になって嬉しいという声をきくことはなかった。町長が言う「住んでよかった」という町って、いったい何なのだろう。

失われたものも多いが、駅の近くの神社はそのまま。双葉町の書家・渡部翠峰さんによる石垣の筆耕と共に、残り続けてほしい。

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故郷は避難者の語りの中にある

堀川文夫さんと貴子さん

渡辺一枝さんによる「福島の声を聞こう」というイベントは41回目になる。7月2日、堀川文夫さん・貴子さんのお話を聞きに、双葉町の友人3人と一緒に、東京・神楽坂にあるセッションハウスを訪ねた。

福島県浪江町で大地震を体験した堀川さんは「原発が危ない、ここにはもう住めない」と思い、3月11日のうちに避難を開始した。浪江町でこんなに早く避難した人は珍しいという。原発が立地する双葉町とは違うところだ。
犬と猫が暮らせる避難先をインターネットで探した結果、静岡県の富士市に戸建て住宅をみつけた。賠償金などない堀川さんのために、大家さんは生活用品を準備し、無償で一年間貸してくれたという。けれど近所で噂がたち、貴子さんはウツになる。塾の先生として子どもたちの教育に力を注いできた文夫さんも、自分を見失ってしまう。貴子さんは、その頃の記憶がまったくないと言う。

ある日、避難した塾の教え子たちが卒業式をやるというので文夫さんは出かけた。生徒の一人が「避難してからいろんな人と出会えて、悪いことばかりじゃなかった」と言う。その言葉を聞いてハッとする。「引きこもって、何をやってたんだ俺は」。文夫さんはその時のことを想い出しながら泣いた。

「成績なんて二の次だ」。文夫さんは自らの教育信条の種を、富士市でも撒こうとする。一歩一歩人間関係を築き、塾を再開していく。それでも自分らは浪江の人間だ。文夫さんが小学生だった時に両親が建ててくれた我が家。戻れないとわかっていても、浪江にその家があることは心の支えだった。できることなら、朽ち果てるまで、残しておきたい。

浪江町は2020年、町民に家の解体を迫ってきた。期限内なら解体費用は国が出すという。新しい暮らしを始めた堀川さんは、800万円の解体費用を自前で用意することはできず、解体申請を出した。申請したもののやっぱりしのびなくて、「後回しにして欲しい」というと「皆そういうんですよ」と言われたという。

解体するのに800万もかかるのは、この家屋が放射性廃棄物だからだ。家だけでなく、浪江町では五つの伝統ある小中学校が解体された。「ここに来れば浪江町のことを想い出せる」という人は多かったのに、跡形もなくなった。老朽化が理由だと町は説明するが、だったら40年を超えた老朽原発を生かし続ける理由は何なのか。

堀川さんの家は一か月かかって解体された。つらすぎて、一度も現場に立ち会うことはできなかった。写真家の中筋純さんに看取ってもらい、『フィーネ』という映像に遺してもらうことになる。

解体作業の中に、庭木の伐採は含まれていなかった。楓の木が残され、それが守り神のように、遠くに暮らす自分たちをつないでくれた。家がなくなっても庭木があるから、自分はまだ浪江の人間なんだと思えたという。
その楓の木も、ついに伐採された時、「自分の中の浪江の根っこが、引っこ抜かれた気がした」。

悔しさはそれだけではない。3・11後、放射能は静岡県にも届き、大量の放射能がキノコから検出された。それを富士市の人は平気で食べている。巨大地震の震源地にある町なのに「30年も前からそう言われてるけど、来ないよ」と言う。「来た時は来た時だ」と。
「ちょっと待ってよ。だからこうやって話してるんだよ」と堀川さんは力を込める。

「故郷がなくなった」と言うと、東電は「それはダムで沈んだ町の人達のことを言うんだ」と返してきたらしい。寄り添うふりをしてきたが、ここ数年で態度が一変した。帰還政策が進む中、世論も「帰れるんだから帰ればいい」という空気になっている。気持ちが何度もズタズタにされる。そういう思いをしている避難者は、とても多い。

堀川さん夫婦は本当に強い。やさしい笑顔で、時に嗚咽する文夫さんを、貴子さんががっしり支えている。浪江町がどんなに凌辱されても、二人の生き方が引き継がれて行けば、希望につながっていくと思う。

塾の教え子19人が絵を描いた絵本

※堀川さんの家の解体を映像にした『フィーネ2-2-A-219』
https://www.youtube.com/watch?v=-AYfjooxbKw&t=8s

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若者たちを襲う健康被害

4月20日放送のレイバーネットТV ゲストの白石草さん(中央)鈴木邦弘さん(右)と筆者(左)

 4月20日のレイバーネットTVは、「11年目のフクシマ〜若者を襲った健康被害」と題して、福島特集を放送しました。
大量に放出された放射能が、人や動植物にどんな影響を及ぼしたのか。マスコミはこのことについて報じることは、ほとんどありません。
しかし、本当に被害はないのでしょうか。

 2011年3月に、当時の双葉町長・井戸川克隆さんは、放射能の被爆から町民を守ろうと、埼玉県加須市の旧騎西高校に避難所を設けました。私はそのような選択をした双葉町に注目し続けてきました。井戸川さんは「放射能の影響で病気になっても『じゃあ何で逃げなかったの』と言われるだけだ。あとからでは遅い」と話してくださいました。放射能の影響は枝野官房長官が言ったように、直ちに出るものではありません。セシウムの半減期は30年。影響が出る頃には、事故当時の責任者たちはこの世にいないかもしれません。

 事故直後から、福島県内では健康を不安視する声がたくさんありました。放射能は目に見えないので、線量計だけが頼りです。避難指示出されていなくても、春休み中だったので一時的に避難する親子もいました。けれど4月に入ってすぐに、学校が再開されることになり、戻ってくる人たちが増えました。当時福島県内のおよそ半分の学校は、放射線管理区域以上の放射線量があったにもかかわらず。

 不安の中で生活し続けるのは大変なことです。長崎大学の山下俊一氏が「ニコニコ笑っている人に放射能はきません」と講演して回り、安心したというお母さんは多かったようです。一方で「大量の鼻血が出た」という話を取り上げたマンガ『美味しんぼ』がバッシングされ、連載中止になりました。大量の鼻血、若者の突然死、異常出産など、実際に私も話に聞くことはありましたが、「そういうことは言うもんじゃない」「福島に住んでいる人たちのことを考えろ」という空気に覆われていて、健康問題はタブーの話になりました。

 町民を福島県外に避難させたことで、井戸川さんは町長を辞任せざるを得なくなりました。福島は安全・安心だと吹聴する国や県にとって、「目の上のたんこぶ」だったからです。井戸川さんは「もっともっと県民を避難させなければならなかったはずだ」と言います。けれど、いろいろな思いや事情によって、福島から離れられない百数万人の人達がいるのをいいことに、「福島は安心して住める場所」にされてしまったと私は思います。

 福島県では県民健康調査が行われ、18歳未満の子どもを対象に甲状腺がんの検査が二年ごとに行われています。100万人に一人か二人と言われていた小児甲状腺がんが、事故後、数十倍に増えたことを、国は認めながらも「放射能との因果関係は認められない」としています。

 この一月、小児甲状腺がんになったうちの六人が、東京電力に損害賠償を求める裁判を東京地裁に提訴しました。この裁判の意味するものが何なのか、ぜひ知ってほしいと思い、OurPlanet-TV代表の白石草さんをゲストに、番組を企画しました。原告になった患者のひとり、「ゆうたさん」もオンラインで登場しています。
 
 また、自分の足で歩き、福島の「復興」の姿を絵で表現している絵本作家、鈴木邦弘さんの話もあります。放送アーカイブをご覧いただければ嬉しいです。
アーカイブ動画(特集部分)

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