日本の快水浴場百選に入る双葉海水浴場、浜野地区。浪江町の請戸に隣接するこの地域は、あの日、大津波にのみ込まれ、亡くなったり行方不明になった人が16名いる。
この地区にある中浜八幡神社も流されたが、住民の強い願いによって2021年に再建された。
そして6月4日。神社の前に『復活』の文字が刻まれた石碑が建ち、除幕式が行われた。梅雨の入口のこの日は、朝から見事に晴れ渡っていた。
集まったのは、この集落の人たち、石碑づくりに協力した人、取材陣ら40人ほど。津波の犠牲者に黙とうをささげた。
「復興が計画通りに進んだと実感できる。感謝申し上げる」という町長の言葉が代読された。この一帯は、家が跡形もなく流されたというのに、双葉町の中で最も放射線量が低く、いち早く立ち入りを許可されるようになった。企業の誘致がいち早く進み、伝承館やビジネスホテル、温泉施設までできた。地図は塗り替わったのだ。
これらをみるたびに、復興とは何だろうかと思わずにはいられなくなる。ヨソモノの感傷にすぎないのだろうか。
黒御影(くろみかげ)の石碑の裏の文字を揮毫しながら涙したと、加須市に避難している双葉町民の書家、渡部翠峰さんは挨拶で語った。中浜行政区長、高倉伊助さんの妻、さだ子さんが考えた文章だ。
中浜で生まれ育ち、福島県須賀川市で避難生活を続ける高倉さんは、真っ黒に日焼けしていて67歳とは思えないほど若々しい。「みんなが協力し合い、結束した地区だったナ。それから負けず嫌い。俺たちは浪江町の請戸小に通ってた」 「双葉町の9割は手付かずなんです。我々の地区は「動ける一割」に当たるが、戻ってくることは不可能。帰れる場所じゃないね。でも、動ける場所だから動いて、できることで世話になった人たちに恩返ししなければね」と言う。
石碑の隣にある「あずまや」は、ここを訪ねた人が世間話でもしてくれたらと思って建てたのだそうだ。
津波で母親を目の前で亡くし、命からがら生きのびた菅本章二さんも、除幕式に参加していた。「今は原っぱだけど、ここは全部家だったんだよ。石碑が出来て、自分の家の目印ができてよかった」と満足そうだった。八幡神社の思い出を聞くと「夏休みとか、ここで同級生と勉強したんだ」という。神社を囲む竹林に風が吹き、さわさわと心地よかった。
『復活を願い』
ここ浜野地区は、阿武隈の山並みを背に広がる、素晴らしい田園地帯であった。風光明媚で志木の色調変化の見事さは、自然とのつながりがみせる技といえる。
2011年3月の東日本大震災により、14名の大切な命を亡くし、未だ全戸避難に至っている。
このようなことが二度と起こらないことを祈るばかりである。
災害時の注意喚起や勧告には素直に耳を傾け、命最優先の行動をとってほしい。
いずれまたこの地に人々が根を下ろすだろう。
自然と共に生き生きと息づく姿を思い描き、「復活」を願う記念碑を、ここに建立する。