今年の元旦、テレビに映し出された能登の惨状を観てからずっと、鵜沼さんは被災地に行きたいと言っていた。
五月の大型連休にその願いが叶い、私も同行させてもらうことになった。
第三回双葉の会では、映像を交えて被災地の報告をした。今回から埼玉県加須市の鵜沼さんの自宅敷地内にある倉庫が会場になり、30余名の人たちが参加した。
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私「志賀原発の前に立ったとき、どう思いましたか?」
久江「周りは隆起していたので、津波が来たけど大したことなくて済んだ。そして原発は動いていなかったので、運よく事故はまぬかれたと思う」。
そして「実はね、原発の前で写真を撮ったりしていたら、後からパトカーが追いかけてきて、私はじめて職務質問されたんですよ」
「だから言ってやったの。私は福島の被災者です。だから能登の人たちのことが気になってしかたないんですってね」
鵜沼さんは笑って言う。彼女はいつもそうだ。
私「双葉の人たちも13年前の震災のショックは大変なものだったと思う。能登の現地をみて、フラッシュバックしたりしませんでしたか?」
久江「私は皆さんの前で話をするとき、辛そうに話すのはやめようと思った。そうすると事実が伝えられないから。今の双葉町の現実の姿を知ってほしい。避難した人がどんな思いで生活しているか。そのために私は自分の感情は全部捨てた」
その後、二分間ずつ、参加した人たちに自分のことを語ってもらった。
双葉町から避難している菅本さんは「ぼくも双葉に一時帰宅するたび職務質問を受ける。警官に『うち、そこだけど一緒に行く?』って言うんだ」。菅本さんの家は、津波で跡形もない。昨年再建された八幡神社が、我が家の場所の目印になっている。
埼玉県内から初めて参加した男性は、能登の被災地の映像の感想を語った。「四ヶ月たったのにこの状況であることに驚いた。ここまで政府が何もしないことが今まであったか。この惨状をみたらボランティアや個人の努力で処理できるものではない」と声を震わせた。
話すのは苦手、という人もいる。でも、双葉の会は、自分の言葉でしゃべることに意味があるんだと思う。誰に何を言われたって構わないじゃないか。鵜沼さんは13年間の避難生活の中でそのことを学んだ。
どこまで強く、凄い人なのかと思う。双葉にいるのは沈黙する民ばかりではない。
そして、そこにこそ「復興」をはね返すような歴史が作られていくのだろう。
私はそれを見届け、記録する者として、鵜沼さんよりも長生きしなければ。