「風化させるな」という前に

 2012年。世の中はコロナ一色の年明けですが、東日本大震災と福島第一原発のメルトダウンから10年。これからしばらくは、メディア報道が増えることでしょう。
 「避難先での生活にも慣れていたし、そっとしておいてほしい」という声も聞こえてきます。被災者、避難者にとっては10年だからといって何か特別なことがあるわけではない、一日一日の積み重ねだけだといわれるかもしれません。

 昨年は自主上映会の大半が中止になりました。双葉町の人たちの集まりも中止になり、なかなか双葉の人と会うこともできなくなる中、一冊の本をAmazonで取り寄せました。

 『災害からの命の守り方~私が避難できたわけ』(文芸社)
 著者は森松明希子さん。2011年3月11日から二か月後、福島県郡山市から幼い二人の子どもを連れて、大阪に避難しました。父親だけ郡山市に残して、三人だけの避難生活は今も続いています。
 郡山市は福島第一原発から60キロ。おそらく10キロ、20キロ圏内の人たちの避難が優先されなくてはならず、郡山はその後だと思っていた。ある日、東京・金町浄水場から高濃度の放射能が検出されたというニュースが流れ、森松さんはびっくりします。東京の水が汚染されているのに、郡山が大丈夫なはずがない。しかし福島県からは何の注意勧告もなく、ペットボトルも配られない。森松さんは0歳と3歳の幼子に水を飲ませてしまったことに大きなショックを受けます。
「子どもをできるだけ良い環境で育てたいと思うのが親だ。ましてや毒を飲ませたいと思う親などいない」
 そこに異論を持つ人はいないでしょう。

 双葉町は「国も県も事実を隠す。町民を放射能から守りたい」という井戸川克隆町長の信念によって、多くの町民が埼玉県加須市で避難生活を始めました。森松さんのように「命を最優先するべき」という人からみれば、双葉町はうらやましい(というか真っ当な価値判断をした)町だということになるでしょう。ただ、双葉町を含む強制避難区域の人たちは、ひと月10万円の保障を否応なしにもらう時期が何年かありました。そのお金があれば避難生活を続ける上で、少なくとも餓死することはないでしょうと森松さんは言います。
 郡山市は一度も避難指示が出されたことはありません。いみじくも「自主避難は自己責任」という復興大臣の言葉が示したように、「する必要のない避難をなぜするのか」と言われてしまう。
 しかし、避難したいというお母さんはたくさんいた。森松さんの自宅の目の前もフレコンバックが山積みで放射線量も高い。週末に子どもを車に乗せて、山形や新潟の公園で遊ばせる。

 「フレコンの前で子育てわたし無理」
 森松さんは川柳をつくりました。「よく言ってくれた」という共感がある一方で、そこで暮らしている人たちも大勢いるのに不安を煽るなという声もありました。森松さんの周りには「避難した人」「残った人」「避難したけれど戻った人」様々な人がいますが、「避難したけど戻った人」にのみ助成金が出されるのだそうです。「命を大切に」というけれど、放射能から逃げることが否定的にとらえられてしまうのは何故なのか。「津波てんでんこ」が教訓にされているのに「放射能てんでんこ」は間違っているのか。
 
「風化させてはいけない」
 私はよくそう言ってきました。しかし森松さんは「風化とは、もともと形あるものが、時間の経過とともになくなっていく様」だが、原発事故による被害の事実が一度でも共有されたことがあるだろうか。被害の全体像も、個別の被害も、未だ存在が認められていないではないか」と書いています。そもそも森松さん自身が、被害者数にカウントされていなかったのです。10年たとうとする今も、何人の人たちが避難を余儀なくされているのか、その数すら把握されていないのです。
 
 私自身、2011年3・11を埼玉県で体験し、放射能の被ばくに脅える日々を過ごしました。当時から比べれば空間線量は下がったらしい。でも原子力緊急事態宣言は未だ解除されていません。それなのにいつの間にか恐怖心は消え、避難生活を続ける人に同情している有様です。いつからこうなってしまったのだろう。政府が決めた線引きの外側にいるから安心だなんて、そんなことを信じているわけではないのに。あの日、私を含め多くの人が「当事者」だった。何も解決しないうちに、当事者を辞めていく人が多い。

 「ある一つの誰かに都合のいい言論があたかも正しいことかのようにお金をつぎ込んで宣伝されると、事実は消されてしまう」と森松さんは書き、だからこそ当事者は、経験や事実を伝える社会的役割があると言っています。
 たくさんのボールを投げかけられました。討論会などできればいいなと思います。
 ぜひご一読を。

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伝承館は何を伝えるのか

 九月に双葉町に『東日本大震災・原子力災害伝承館」がオープンしたというので、10月24日、25日に行ってきました。二日間の行程を共にしたメンバーの中には双葉町民の鵜沼さんや、つい先日、わが家が解体されたばかりのYさんもいました。事故が起こる前は、郵便配達や水道の検針で双葉町民の家を訪ね歩いていたというYさん。久しぶりの双葉町はすっかり風景が変わってしまい、鵜沼さんに「ここは〇〇さんの家があったところだよ」と言われるたびに、目を丸くしていました。

 

どこを歩いているのかわからないと言いながら、写真を撮るYさん

 

 

 

 

 

 

 

伝承館は双葉町の中でも津波被害を受けた中野・中浜に建てられました。この地域は比較的放射線量は低いということで「特定復興再生拠点区域」に指定されているのですが、まっさらな土地にそびえたつ白い建物は、思いのほか立派で驚きました。
伝承館からすぐそばに海がみえます。3・11前、その海がみえないくらい、ここには沢山の家や松林がありました。何もかも流されてしまった現実を必死で受け止めながら、住民はそれぞれの避難先で、この9年を生きてきました。
町民は今も「仮の宿」での生活を余儀なくされているというのに。
伝承館はこの先なにがあっても、ここから動く気がないかのように、完成された姿をみせつけていました。

伝承館から海がみえる

 

 

 

 

53億円をかけて国が建てたという伝承館。入館料は大人600円。展示物の撮影は禁止。

最初に巨大スクリーンに、震災や事故をふりかえる映像と共に、「復興についてこの場所で考えることができたら」という西田敏行の語りが流れます。
奥には「語り部講話」の部屋があり、29人の語り部が日替わりで40分ほど体験を語るのですが、そもそも語り部になるためには審査があり、語る内容も国や東電を批判してはならないとのこと。私たちはそこで大熊町出身の男性の話を聞かせてもらったのですが、質疑応答も含めすべての内容がチェックされる環境で、本当に伝えたいことが伝えられるのかと思いました。
「しゃべるのにも気を遣うから」とYさん。福島では相手がどういう人かわかっていないと、思ったことを話せない空気があります。語り部の人たち、緊張することでしょう。講和が終わってから鵜沼さんやYさんが話しかけると、男性の表情が緩やかにほどけてきました。

語り部や案内職員を囲んで話をする。

館内職員も地元出身者が多く、双葉町民のYさんや鵜沼さんが話しかけると嬉しそう。同郷人として、この九年間をどう過ごしてきたのか。どうやって避難し、避難先での暮らしはどうなのか。町の復興計画をどう思うか。互いに経験を語り、気持ちを通わせることが、今だからできるようになったのだと、そばでみながら私は思いました。でも、それをやるのはここでなければならないのか。

伝承館が立っているのは海からわずか750メートル。福島第一原発から四キロで、すぐ隣には中間貯蔵施設があります。子どもの来館者も多く、一か月間で北海道から沖縄まで30以上の高校が修学旅行で訪れたとのことですが、まだ早いのでは? 私の問いかけに、職員は「郡山市や福島市じゃリアリティーがない。経験した場所でないと」と応えました。ここはもう、危ない場所ではないのでしょうか。「私たち職員は、ここには泊まれないんですよね」とおっしゃるので、せめてそのことを来館者に伝えてくださいとお願いすると「そうですよね」と、その人は言ったのでした。

 

巨大スクリーン 子どもたちも多い

伝承館がここに建っていることの意味を考えなければ。

伝承館を出た後、「自分が伝えなくちゃ」と、Yさんは何度もつぶやいていました。

 

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先がみえない中で

毎年三月から四月にかけては上映会が目白押しだったのですが、今年は新型コロナウイルスによって中止になりました。
そこで、この場で双葉町のことを伝えていこうと思います。

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 埼玉県加須市に、新築の家が建とうとしている。蜂須賀秀夫さん(76)。自らの手で我が家を建てたのは二度目だ。「加須は自然豊かでイイわい。イタチや山鳩、キジなんかもいる」。双葉町から避難して9年。道のりは長かった。

 蜂須賀さんに初めてお会いしたのは今年の一月。東京五輪へのカウントダウンが始まっていた。常磐線の全線開通に伴なって、双葉駅がリニューアルオープン。そこにつながる常磐道双葉インターも完成間近だった。帰還困難区域だった双葉町が、一部とはいえ避難解除になるのだ。
 そもそも双葉町の4%だけは、既に避難指示解除されていた。海岸沿いにある中野・中浜地区。放射線量が比較的低いということで、スクリーニング場を通らなくても、昼間であれば許可なく自由に立ち入ることができるのだ。

 蜂須賀さんはその「中浜」に住んでいた。腕のいい大工で、仕事のかたわら妻と米作りもやっていた。自宅から福島第一原発までの距離は3・5キロ。「25歳の時に原発ができた。危険なもの持ってきたなと思ってた。7、8号機ができると聞いた時、はじめて町政懇談会にも行ったわい。やめて欲しいと思って」。
 そして訪れた2011・3・11。西へ逃げろと言われ車を出した。前を走っていた女性ドライバーが、ウインカーも出さずに突然海の方に曲がって行ってしまった。車から降りて「だめだよ、そっち行っちゃ」と制しようとしたが、追いかける余裕はなく、のちにその人は津波にのまれ亡くなったことを知る。自分で建てた我が家も、基礎だけ残して流された。

 その後、蜂須賀さんは福島県内の避難所を転々とし、井戸川克隆町長が指示した埼玉県加須市の避難所におもむいた。旧騎西高校には1400人の双葉町民が身を寄せていた。「ひと月したら帰れる」「お盆には帰れる」と言う人たちが多かったが、蜂須賀さんは最初から「戻るのは無理だべ」と思っていた。やがて東電から賠償の話が出てきたが、蜂須賀さんの家は原発事故ではなく津波で流されたということで、一銭も支払われなかった。精神的慰謝料はもらったものの、それでは仮住まいしかできない。自力で生活を立て直したいという思いがあった。最近主流のプレカット工法でない、昔ながらの大工。木の調子をつかむことには自信があった。「うちが建てたのは震度七でも壊れなかった」。福島県内の仮設住宅の建設や一般住宅の修理を頼まれ、妻と二人で郡山市に移った。二年間働きずくめで、埼玉に戻って来た。

 騎西高校は2013年末に閉鎖したが、加須市内に残る町民も少なくなかった。そんな中で、蜂須賀さんは1町3反(3300坪)の田んぼを買った。ここに根をはると決めたのだ。「埼玉でコメ作ってれば安心だわい」と蜂須賀さんは言う。双葉町とは気候が違うから大変なのではと尋ねると「埼玉は温かいから草が伸びるのが早いって、それくらいだ」という。双葉時代、除草剤を撒かずにコメを作って来た蜂須賀さんにとって、草むしりなど大したことではなかった。

 

「復興計画マップ」をみる

「双葉町復興再生マップ」というのがある。双葉町は2022年に住民を帰還させる予定だ。双葉駅の西側に住宅を、そして比較的放射線量が低いとされる中野地区を「新産業創出ゾーン」、中浜地区を「水田再生活用拠点」にするという。中浜に水田を持っていた蜂須賀さんは、双葉町でコメをつくることに反対だ。「双葉で米作って誰が買うの。○○産っていって売るんだからナ」と蜂須賀さんはいう。「それって、いいんですか?」と私が聞くと、「悪いわぃ。でも産地偽装なんて、もうやってるから」。

 その水田づくりの計画が本格的に動き始めている。中野・中浜の住民が集められて説明会が行われたそうだ。「舞台ファーム」という仙台にある農業法人が説明に来ていて、もし住民が耕作しないのなら代わりに舞台ファームが米を作る。そして収穫した米は「宮城産」として販売するのだという。蜂須賀さん同様に米作りに反対だという地主もいるが、上から決まったことをただ聞かされるだけだった。
 いくら除染したところで、野菜と違って米は大量の水を使う。水源は浪江町の大垣ダムで放射線量が高い。「放射能の水で作った米はマズイぞ。上っ面の水だけを使うからさすけねえ(大丈夫)っていうが、わ(自分)の口に入るわけじゃないからそんなこと言うんだ」

 親戚のうち何人か、ここ数年でガンで亡くなった。放射能で汚染されたコメを食べたせいだと、蜂須賀さんは思っている。「セシウムが脊髄に入ると、リンパがんになりやすい。それに、発見されてから亡くなるまでが早すぎる」 証明はできないが、蜂須賀さんは原発のせいだと確信している。それなのに福島県は、福島で耕作する人に手厚い保証をする。「なんだって、埼玉でコメ作ればいいものを・・・」

 毎年3月になると、どれだけ復興したかという話題になる。「復興、復興って、そんなに急ぐことはねえべし。そっとしておくのが一番いい。山やダムは掃除してないんだから」。
 コロナによって五輪は延期になった。人間がどんなに願望しようと、ウイルスは思い通りになってはくれない。原発事故には早々と収束宣言を出した(2011年12月16日)日本政府も、今回は慎重にならざるを得ない。世界中が先の見えない生活を強いられたこの春、双葉町の避難者は、どこかどっしりと腰を据えているようにみえる。

完成間近の家を眺める蜂須賀さん

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新しくなった双葉駅


3月14日 常磐線が九年ぶりに全線開通になったその日。双葉駅に行ってきました。コロナの感染拡大を防ぐため、各地から双葉駅まで町民を乗せて運行する予定だったバスは中止。にもかかわらず、実際に行ってみると、ホームも改札構内も、人であふれかえっていたのには驚きました。「新幹線も止まるような駅だ」。昔の双葉駅を知る人にとって、信じられないほどの変わり様です。ホームの上で「標葉せんだん太鼓」が鳴り響く中、特急列車が滑り込んできました。

標葉せんだん太鼓

 

 

 

 

 

今回開通になった「双葉」「大野」「夜ノ森」各駅は帰還困難区域。駅周辺は人が住むことはできない線量で、今回の避難解除は電車を通すため、「復興五輪」に間に合わせるための解除でした。その五輪も延期となり、高線量の線路を毎日10往復以上走らせなければならない現実が残りました。列車を運転する鉄道員の被ばくが心配です。

無人駅のためオペレーターが対応する

無人駅のためオペレーターが対応する

 

 

 

双葉町の伊沢史郎町長は「復興および地方創生の新しい町づくりを実現する」とスピーチしました。2年後には駅の西側に復興住宅を建てて、町民が暮らせるようにするそうです。「30年は帰れないと言われていたのに」という双葉の人たちは、新しくなった双葉駅をどんな思いで見ているのでしょうか。

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3月15日「原発事故から9年 フクシマのいまを考える」 中止のお知らせ

3月15日(日)に板橋区立文化会館で予定していました「原発事故から9年 フクシマのいまを考える」は、新型コロナ感染症の拡大を受け、中止となりました。今後については、また新しい情報が入り次第お伝えします。

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