双葉町に人が住めるようになって一年になる。
昨年10月1日。双葉駅の西側にはモダンな復興住宅がオープンし、今も増設が続いている。
ここに、一早く入居した松浦トミ子さん(87)がいる。「病院もない、店もないのに、本当に双葉に帰るつもりなのか」という周囲の言葉にも「そんなの覚悟の上だ」と言い切った。
松浦さんの自宅は、まだ避難指示が解除になっていない。自分の家に住むことはできないが、それでも双葉の空気はいいという。暑さで窓を開け放していると、工事による砂埃が入ってくるが「いちいち文句言っても仕方ないでしょ。働いてる人だって大変なんだから」
我慢強い松浦さんだが、ひとつだけガマンできないのは、お墓に行くにも事前申請が必要だということだ。親戚が大勢墓参りに来た時に、一人だけ申請漏れがあり、入れなかったことが悔しかったという。「せっかく双葉に帰って来たのに、墓参りも自由にできないとは」
避難指示が解除されたといっても、町全体の面積の15%。そのうち、津波の被害を受けた中野中浜地区では先行的に解除が進められ、宿泊はできないものの、伝承館や産業交流センター、企業、ビジネスホテルが次々と作られていた。駅から2キロほど離れたこの空間は、テレビにもたびたび映し出され、さながらテーマパークのようだ。
その一方、双葉町の大半(85%)は「帰還困難区域」だ。中間貯蔵施設に隣接する細谷地区にある、鵜沼久江さんの家を訪ねた。ここも、申請を出さなければ入ることができない。除染も解体も進まず、12年前のまま。ただ朽ち果てるのを待つのみか。
鵜沼さんは50頭の牛を飼っていた。牛舎には牛糞が厚い層をなしていたが、随分薄くなっていた。一度も除染をしていないのに、放射線量は随分下がっている。「風に吹かれて、飛ばされたんだと思うよ」と鵜沼さん。
選ばれた箱庭みたいなだけが「明るい復興」を演出している。そう思えてならないのだ。