7月15日、双葉の盆踊りが13年ぶりに双葉町で行われました。
夕方五時、双葉駅前広場。
先祖の供養のために長く歌い踊り継がれてきた「双葉盆歌」は、全国に散り散りになった双葉の人たちが、避難先でも続けてきた伝統芸能です。私は埼玉県加須市で毎年のように盆歌を聴いてきました。2011年の8月14日、双葉町民が騎西の人達との交流を兼ねて、旧騎西高校のグラウンドで開催された盆踊りは、今も忘れることが出来ません。避難先ではじめて、双葉町の人たちが主体となり、自分らしさを披露することが出来たのではないか。そう感じたからです。普段はあまり交流のなかった地元加須市の人達も、この日はグラウンドに来て、一緒に盆踊りを楽しんでいました。あれから12年たち、双葉は「帰れる町」になりました。
双葉町には集落ごとに太鼓や笛や歌い手の名手がいます。途切れることなく盆歌をつなぐ「櫓の共演」のことを、私は2019年に公開された映画『盆歌』(中江裕司監督)で知りました。映画の中では、仮設住宅のあったいわき市南台で「櫓の共演」のシーンが撮影されていましたが、圧巻でした。いつか双葉町で実現することができるのだろうかと思っていましたが、この日ついに双葉駅前で、長塚地区をはじめ6地区による櫓の共演が行われたのでした。映画の主人公でもある、せんだん太鼓のリーダー横山久勝さんも、この日、避難先の本宮町から双葉駅前にやってきました。
主催した「未来双葉会」の木幡昌也さんのかけ声で始まった盆踊り。およそ二時間半、途切れることなく双葉盆歌がつづきます。久しぶりに会う双葉町民は「涙が出そう」「避難してから今まで、無我夢中だった。今日やっと『懐かしい』という感情が湧いた」と感慨深そうでした。「やぐらの共演は、もっと激しくてね。櫓から落っこちる人もいたのよ」と教えてくれる人もいました。
横山久勝さんに話を聞きました。
私「盆歌の映画で観た『櫓の共演』は激しかったですよね」
横山「そうだね。テンション上がるまでには長い時間が必要。暗くなって来ないとテンション上がらないんだよね」
仲間たちと一緒に太鼓の練習をすることも難しくなっていますが、それでも横山さんは太鼓を叩く体力だけは維持しようと努力しているそうです。
「双葉でやれるようになったといっても、昔の双葉駅と違う。今日ここにいるのは双葉の人よりもよそから来た人の方が多いけれど、・・・そういうふうになっていくんでしょうね。よそから来た人でも、教えて欲しいという人がいたら教えるから、引き継いでほしいよね」
浴衣姿や子どもたちも大勢集まり、櫓を囲みます。何人かの人に話を聞いてみました。東京から来たという18歳の女性は、大学に入ったのを機に、東日本大震災の被災地を旅しているが、双葉町が一番きれいで好きだと言います。復興後の明るさを、いつか表現してみたいのだと。・・・
そうなのか。あの震災と原発事故のとき6歳だった彼女にとって、双葉町が背負ったものは過去のことなのだ。胸が詰まりました。帰れる町になったというのに、なぜ町の人たちの多くは帰って来ないのか。12年間この町の人たちはどうやって暮らしてきたのか。物事には光と影の両方があるけれど、影の部分にも目を向けてねと、彼女にそう言うのが精一杯でした。
今、双葉町を見学する大学生も増えています。彼らの目に、双葉町はどんなふうに映るだろう。原発のある双葉町。その歴史は、まだ終わっていません。原発事故はまだ収束していないのだということを、忘れてはいけない。放射能が降り注いだ大地。その上につくられた「復興」の脆さを感じながら、この駅に降り立つ必要があるのだと思います。