2019年 新年のはじめに

 初春に二冊の本と出合いました。ひとつは双葉町の料理の本。池袋のジュンク堂で偶然みつけました。筆者は伊藤政彦さんといって幼少期を双葉町で過ごし、料理人になった人。
 アイナメ、ジュウネン、タランボ、イノハナ、ハツタケ・・・。双葉町の人たちが教えてくれた素材が出てきます。
 イノハナご飯、ほうれん草のじゅうねん和え・・・双葉とは縁もゆかりもなかった私なのに、なんだかとても懐かしい。「野菜もキノコもタケノコも、天ぷらの裁量は全部そろう。買う必要なんてなかったね」。 原発事故は、こういう楽しみを奪ったけれど、双葉の人たちの記憶の中に、故郷の恵みはきちんと残っています。

 もう一冊は『みな、やっとの思いで坂をのぼる~水俣病患者のいま』。
 この本を書いたのは永野三智さん。「自分は水俣病なのではないか」と不安に思う人たちの話を聞き、相談にのっています。1983年に水俣で生まれた永野さんにとって、水俣病患者は慣れ親しんだ人たちであり、自身の出身を隠したくなる原因でもありました。一度は故郷を離れたけれど、紆余曲折を経て水俣に戻り、相思社の職員になりました。公式確認から62年たった今も、悩み迷いながら草思社をたずねる人は後を絶ちません。そういう人たちとの出会いの中から生まれたのがこの本です。
 
 水俣病が公害病に認定されて50年。地元住民に中枢神経疾患が出たことが確認されてから12年もたってからでした。日本を支える化学企業「チッソ」を国は守りたいがために、被害者にわずかな見舞金を与え、声をあげさせないようにした。それを支えた中には水俣の住民たちもいました。企業が責任を隠し国、県、学者がそれを支え、水俣病の認定を求める人は差別され、同じ町の中で分断が起きる。「いったい誰の立場に立てばいいのか、誰と共に生きればいいのか悩む。この複雑さこそが水俣病事件なのだと思うようになった」と永野さんは記しています。
 子どもの頃から丼一杯、鍋一杯の魚や貝を食べていたら、15歳で何匹ものセミが鳴いているような耳鳴り、手のしびれに襲われるようになったという男性。彼は何十年も水俣病の申請を出すことができませんでした。いわく「魚の行商をしていた母が、水俣病をふりまいたと思うと申し訳なく、自分は水俣病になることはできんと思って生きてきた」という。

 「政府によって企業によって国民によって、水俣病の『解決』は何度も語られてきたけれど、水俣病に解決なんかない」と書く永野さん。
 土本典昭さん、原田正純さん、そして石牟礼道子さん亡き後も、30代の永野さんが語り継いでいる水俣。
 福島はまだ8年。私はずっと、双葉を追い続けたい。これからもっと、様々な人たちに出会ってみたいと思います。
 

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