風化と分断に抗う

 二月から三月にかけて、上映会で鵜沼久江さんとトークする機会が重なった。
鵜沼さんに密着してきた私にとっても、はじめて聞く話が出てきたりする。立ち止まることなく彼女は前へ進んでいるのだ。

「やっぱり避難生活が長くなると、みんないろいろ私に話してくれる。だから私が話すことは、私の経験だけではない。みんなが同じ思いをしてるっていうことを映画にしてもらったの」
 
 鵜沼さんは原発事故の後、埼玉県の旧騎西高校に避難するが、近くに納屋と田んぼを借りて農業を再開した。しかし「多くの町民は、体は埼玉にあるけど心は双葉町。次のことを考えようというふうにはならなかった」。
 そんな人たちのために、コメと野菜を作って騎西高校に持って行こうと鵜沼さんは考えた。双葉の母ちゃんたちに双葉の味を再現してもらいたかったと。しかし一次避難所の騎西高校では自炊ができない。「私たちに責任持たせてほしかった」。

 「カネ貰って贅沢してる」。そういわれて、外に出られなくなった人たちは大勢いる。「避難者に土地は貸さない、買いなさい」「双葉町で作った野菜なんて買わないよ」。それらの言葉をすべて乗り越えないと、ふつうに働くことができない。それでも昨年つれあいが亡くなり、一人で畑作業をする鵜沼さんに声をかけてくれる近所の人も増えてきた。
 ・・・笑顔で語り続けるのはなぜ?
「たしかに言えば打たれる。でも国の言いなりになって原発ができて、賠償も国が勝手に決めてきた。これからも国の言いなりになって生きていく、私はそれが嫌なだけ」

 ・・・精神的慰謝料がこの三月で打ち切られるが。
「この七年間、ひと月10万円のお金に縛られ、ずっともらえると思ってしまった町民も悪い。私にとってちっとも嬉しくないお金だった。皆さんの電気料を上げて、それで私たちの補償を賄ってほしくない。東電ができるだけのことを精一杯してくれればいいんです」

 そして「東京に来て思うのは、こんな高いビルにいて、災害があったらどうすんのかなあ。車で逃げるにしても渋滞は私らが経験した比じゃないだろうなと。災害は怒るかもじゃなくて起きるんです。それが、絶対安全って思って生きてきた私たちが、確信持っていえること」という。
 そんな鵜沼さんは、やっぱり私たちの先を見つめている人だ。

 

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