「原発の町を追われて」極私的感想

正木俊行     2013.02.24

 原発に関する映像作品はさまざま発表されているが、この作品はNHK的予定調和を排した(というほど意図的かどうかは別として)、見る人をインスパイアする、話題性のある、あるいはやや論争的な(論争のタネがいっぱい転がっている)作品ではないかと思う。
 (まだ見ていない人は、ぜひ見てから以下を読んでください)

 1週間前、東京・国立の映像居酒屋「キノ・キュッへ(木乃久兵衛)」で、この『原発の町を追われて〜避難民・双葉町の記録』の上映があり、私も見に行った。
 上映後、制作者である堀切さとみさんと、たまたま参加していた、映画にも登場する避難民である鵜沼友恵さんのトークがあり、そのあと観客との質疑応答など、1時間弱の映画に対して1時間半の熱いディスカッションが続いた。

 特に観客の注目を集めたのは、家族10人で埼玉に避難してきた田中信一さんの一家。
 田中さんは映画の中で、東電で働いていた義理の息子のことを話す。事故が発生したとき、所長が「皆のことを犠牲にはできないから自分の意志で現場を離れてもよい」と通達を出した。彼の息子は、およそ80人の社員のうち、現場に残った10人のうちの一人だった。「特攻隊だったんだよ」と田中さんは涙を浮かべながら言う。「おれ、泣いた。嬉しくって。責任感があるわけだ」と。親として、現場を捨てずに作業を続けた息子を誇りに思うという発言だった。

 これに対して、観客の一人が噛み付いた。これはまさに、特攻隊の精神ではないかと。日本人はそういう精神状態に巻き込まれやすいメンタリティを持っている。これを克服しないと、また「名誉の英霊」にされる危険性があるのだ、と。

 さて、ここからが私の個人的意見だ。
 責任放棄を潔しとしない態度は、特攻隊と同じく日本人の困ったメンタリティなのだろうか。
 ならばこの場合、田中信一さんはほかにどんな態度をとればよかったろうか。
 加川良なみに、「命はひとつ人生は一回‥‥逃げなさい、隠れなさい」と言うべきだったろうか。
 場面が原発ではなく、ごく一般的な職場だったらどうなのか。自分の仕事に信念を持ち、責任を全うしようと考えるのは、労働現場においてきわめて当然の、誉められるべき態度であり、正しい倫理ではないのか。
 それがなぜ特攻隊的として批判されなければならないのか。

 私の結論を言ってしまえば、批判されなければならないのは特攻隊精神ではない。
 自らの仕事に責任感を持つのは正しい倫理的態度だ。
 職場を放棄すれば事故はさらに拡大するとの判断は何ら間違っていない。
 自己犠牲の精神は(限定付きではあっても)美しいのは確かなのだ。

 何が問題か。労働者としてのその倫理的態度が間違っているのではなく、自己犠牲が強要されなければならない「状況」と、その状況を生み出した者が批判されなければならないのだ。
 特攻隊の「精神」自体は美しいが、侵略戦争を聖戦と偽ったこと、自己犠牲を強要したこと自体が間違いであり、そこに批判の矛先を向けなければならない。

犬死にを英霊という八一五    斗周

 メンタリティというものを指摘するにしても、そもそも人間の基本的なメンタリティなどは変えられるものではない。克服など不可能だし、倫理的に正しいものを克服する必要もない。田中信一さんの「嬉しくって」という言葉は、そのまま受け取るべきだ。
 むしろ、平常時でも人体に悪影響のある仕事をしなければならない原発というシステムの非合理性を、徹底的に批判しなければならないのだと思う。

 さてもうひとつ、田中さん一家の話。
 信一さんの父親は原発建設を認めてきた人で、映画の中でも必ずしも反原発という態度をとっていない。
 原発に批判的な風潮をさして「わけわからず騒ぐのはいちばん困る」という発言などもあり、キノ・キュッへのオーナー佐々木健さんによれば、一回めの上映の時にはそのシーンを指して「逆効果だ」と批判した観客もあったという。

 しかし、そのようなシーンをNHK的予定調和なしに真っ正直に表現したところが、この映画のまさしく真骨頂であり、これも佐々木氏が言うところの「あのシーンが撮れたということで、映画としての膨らみが出た」ということになるのだと思う。

 さらにもうひとつ、田中一家の話題だ。
 長女の信子さんは、避難したばかりのアリーナで「すごくみじめで、情けない」気分でいた。
 ボランティアの人たちが働いてくれているのだが、ダンボールに囲まれて座り込んだ自分たちを上から見おろされて「何ともいえない屈辱」を感じたという。

 この辺りの映像もまた、ボランティアを美談としてパターン化するだけのマスメディアとはまったく違う事実を正直に映し出している。その意味で最初に「論争的」と言ったわけだが、この映画を元にして、さまざまな議論が可能になるだろうと思う。

 そのほかには、避難所で書道教室を始めた書家の渡部翠峰さんのシーンも印象に残るし、映画の冒頭と末尾に使われるコーラスのすぐれた効果も指摘しておきたい。

 この映画の別の角度からの批評としては、「あつこばのブログ」なども参照していただけたらと思う(注1)

※当日の鵜沼友恵さんの話では、井戸川町長評が面白かった。彼はいわゆる政治家ではなく、根回ししない、ごますりしない。だから政治は下手だ‥‥と、これは褒め言葉だ。
鵜沼さんの予測では、井戸川さんは町長選に再出馬しないだろうとのことだったが、現実にはサプライズが起きた(注2)。原発災害のいわば先駆としての双葉町の対応に、今後も注目して行きたい。

注1)このブログでの批評は、「原発の町を追われて」完成版の一つ前のヴァージョンを元にしたもので、完成版はこの批評にある意見も踏まえて改訂されている。
注2)このあとさらに、出馬取り下げというさらなるサプライズが起きた。