ある哲学者からの手紙

 村上勝三先生は哲学者。東洋大学文学研究所教授を退官された2015年に『ポストフクシマの哲学~原発のない世界のために』を上梓されました。
 村上先生とは2014年に『原発の町を追われて』を東洋大学で上映して下さった時に、一度だけお会いしました。その後も何度か手紙のやり取りをしてきましたが、沖縄に拠点を移した今も福島のことを思い続けていらっしゃいます。今回三部作への感想を寄せてくださいました。
 
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 2011年3月11日。この日から始まった東京電力福島第一原子力発電所の過酷事故が引き起こした事象は、国のかたちを変え、国民の倫理を変え、一人一人の人生を変え、自然をも変えてしまった。この森羅万象に及ぶ出来事をどのように描くのか。もうすぐ6年目を迎えようとしているこの今、その6年という月日さえも、事象全体を一筋に纏め上げることを容易にはしない。この人類史的な出来事はいったい何であったのか。どのような切り取り方をしても、ほんの一つの面を描き出すに過ぎない。東京電力福島第一原子力発電所の過酷事故は科学者の良心をズタズタにし、「科学者」と名乗る鉄面皮が嘘八百を偉そうにさえずる。「科学」の客観性は失われ、「多様性」という名の、実は「強者」の暴力が、暴力だけが人々を支配する。そういう国に、私たちの国は成り果てた。事象の客観的把握を望むこともできない。
 人間にとって過酷な、道理もへったくれもないこの「地獄」のなかで生きる私たちに何ができるのか。この泥沼の中で未来を語ることか、理想を語ることか、希望を語ることか、絶望を語ることか。泥沼の中の蓮は極楽においても美しい。しかし、混沌の中に何をおいても、混沌しか見えない。それでは私たちにできることは何もないのか。「私」にできることはある。この短い一人の一生、どのような状況にあっても「誠実」に生きればよいのである。それがどれほど難しい生き方か分かっていればいるほど、容易に誠実になれる。しかし、「私たち」には何ができるのか。人々に伝えるものとして「私たち」は何を残すことができるのか。それは「記録」である。だからといって「記録」ならすべて「私たち」の記録なのではない。東京電力福島第一原子力発電所の過酷事故はこのことも私たちに教えた。はっきりしているのは「強者」の歴史は、私たちの歴史ではないということである。強者の正義は正義ではなく暴力である。そのように、「正義」がいつも弱者の側にあるように、歴史は「私たち」の側にある。弱者の側にある。
 「私たち」の側の記録は記憶になり、泥沼をも受け止めて、いずれは澄んだ水をたたえる水底になる。記録が記憶になり歴史になる。「ありのまま」を記録するのではない。「ありのまま」などないことを、「私たち」はとっくの昔に気づいている。だから、「私たち」が「私たち」を記録しなければならない。弱い者を記録しなければならない。「狡い者」、狡猾さは欠陥である。狡猾な者は強い者である。なぜならば、己を知らないからである。弱い者は誠実な者である。己の弱さを知っているのだから。だから「私たち」は社会的に疎外されている弱い者を誠実に記録しなければならない。それがこの欺きとごまかしばかりの「地獄」において「私たち」のできることである。「私たち」が自分たちの未来を夢見ることのできる唯一の手立てはこれである。

 堀切さとみ『原発の町を追われて』は弱い者を誠実に記録した作品である。その倫理性(生きることの証)の軸になるのが二人の鵜沼である。二人の鵜沼は弱い者の強さであり、双葉町長の井戸川は強い者の弱さである。牛はいつも哀愁の対象として最も弱い者の最大の強さの象徴である。
 第一部「原発の町を追われて」は目に見えない牢獄から逃れて無為の牢獄で過ごさざるをえない苦悩を描く。帰りたいけれども帰れない、しかし、もしかして帰れるかもしれない。そういう双葉町民の2011年3月から2012年3月を扱っている。すべて初めて出会うことばかりだ。落ち着いてみれば、過去との繋がりを無理矢理に断ちきられ、無為のなかで、その気持ちをどのように表現できるのか分からない。そのなかで自分の役割を見つけようとする。「現に生きて住んでいたところがありながら、戻れない」。しかし、どこかで生き、どこかに住まなければならない。ここではない。段ボールで区切られた空間のなかで、何も悪いことはしていないのに、「逃げたものは非国民」と罵られたという。そのなかでも目標を探していかなければ、生きたことにはならない。それぞれが何かをし始める。2012年3月11日、井戸川町長の「ここで終わるわけにはいかない」、「もう一踏ん張り」で第一部は終わる。
 第二部「二年目の双葉町」は2014年4月から2013年3月にわたっての時期である。帰りたいけれども、帰れるのかどうかまだ分からないので、帰らないか、移住する。双葉町ではない福島県に帰る人。双葉町への一時帰郷。町役場を埼玉県におきつづける井戸川町長不信任。三度目の不信任が可決される。鵜沼友恵さんの一時帰郷に同伴する。牛が寄ってくる。迎えてくれるが、何もできない。もう無為ではない。前に向かわざるをえないが、どちらが前なのか。町民が「ばらばらになる」。2013年2月7日町長退任式が騎西高校で行われる。「もっと避難させなければならなかった」。「子どもたちのため」。「福島県内が危険だと叫ぶ首長は私しかいなかった」。3月12日、国会前、鵜沼友恵さんの演説。「人として生きていきたい」。第二部最後は「双葉町はどこへ行くのだろう」というナレーションで終わる。移住と復興の難しさが凝縮された表現である。堀切はさらに双葉町のその後を追い続ける。
 第三部「ある牛飼いの記録」は2014年から2017年。鵜沼久江が耕運機を覚束無くもどっしりと動かすシーンから始まる。第三部は、福島で牛を飼っていた鵜沼久江が埼玉で農業をはじめ、自らの営みを土地と土地の人々に根づかせようとする日々を軸にして展開する。鵜沼久江は友恵の母親である。彼女自身母親である鵜沼友恵は、本編第一部と第二部において、周りは揺れ動いても、そこから離れては双葉町民の生活が見通せない、そういう重石ないしは錨の役割をしていた。第三部だけを観た者には、友恵を通して垣間見える双葉町民全体の有り様に到ることはできないが、第一部から観る者には、鵜沼母娘の生き方が本編全体の、いわば「背骨」になっていることがわかる。過ぎ去ったものどもへの哀惜と定住の難しさのなかから新しい喜びへの方がが見え始める。

 映像作品は、文学作品以上に時間芸術である。何分か巻き戻すのは、何頁かめくり返すのと同じようにできたとしても、同じように確かめ直すことができるのは、筋と文字情報だけである。それらの総体としての映像は、一部を切り離すと視覚の連続性を保証できなくなる。切り離された二つのシーンの連続性は筋と文字情報によって支えられる。視覚は現前性を成立根拠にするから、それだけでは連続性を支えられない。逆に言えば、視覚は「ほんのちょっと前」と「ほんのちょっと後」との間にあるから、その役割を十分に果たす。前後から切り離された静止画の意味は、見ている者の思考によって補われて初めてその意味を獲得する。ドキュメンタリー作品において、時間の流れは映像の流れとは別に確保されなければならない。映像が流れてその意味を表出しても、映像によって語られなければならない実時間を表出したことにならない。本作品においては字幕によって実時間が示される。このことは大事なことである。もう少し期日に関する字幕が強調されてもよかったかもしれない。作品の製作者は、作品を鑑賞する者がどれほど注意深く、どれほど当該の知識をもっていても、いつも鑑賞する者よりも対象について詳しい。
 堀切さとみはこれからも双葉町民を追い続けるだろう。そのことは同時に、新しいドキュメンタリー方法論を見出していく過程になるだろう。事実を対象にするドキュメンタリーと物語の映像化であるドラマ作品は異なる。誰もが異なると考える。しかし、その異なりを映像の異なりに仕上げるのは難しいだろう。第一部から第二部へ、第二部から第三部へ、いわば「映像の思索」を深めてきた堀切がこれからどのような境地を切り拓いていくのか。弱者としての「私たち」はそれを待ち望んでいるのではないだろうか。

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