前町長による被ばく裁判

8月21日午後2時。東京地裁101号法廷で「原発事故で失われたふるさと そして被ばくの責任を問う 福島被ばく訴訟」が行われた。原告は前双葉町長・井戸川克隆氏(写真)。被告は東京電力株式会社と国。巨大な二つを相手に、たった一人で起こしたこの裁判に、96の傍聴席を求めて多くの人たちが列をつくった。井戸川さんは皆が並ぶ昼前から、地裁前で自ら作った資料を配っていたそうだ。

いつもより高い、かすれた声が法廷内に響いた。「私は、今回の原発事故により計り知れない被害を受け、数えきれないほど多くのものを失いました」に始まる意見陳述は、避難を余儀なくされ、不安から逃れられない多くの人たちの気持ちを代弁する。井戸川さんには自分や家族だけでなく、町民を被ばくさせてはならない首長としての責任があった。だから爆発後一週間で「さいたまスーパーアリーナ」、その後旧騎西高校(いずれも埼玉県)へ町民を避難させたのだが、それにしても、双葉町民がうけた初期被ばくは甚大だった。

2011年3月12日。大半を川俣町に避難させたものの、最後まで町内に遺されたのが高齢者施設や病院の人たちだった。その避難誘導をしていた井戸川さんは15時36分、「ドン」という音とともに、ぼたん雪のように降る放射性降下物をみる。一号機が爆発したのだ。この場にいた数百人の町民と「もうこれでお終いだ」との思いを共有したという。同じころ政府のテレビ会見では「直ちに影響はない」を強調し、事態の深刻さをまったく伝えなかった。「なんだこの国は。我々を見捨てる気か」と、強い不信感を持たざるをえなかったという。

もっと問題だったのは東電が、避難誘導どころか予告もなしにベントを実行していたことだ。フクイチから5キロほどの双葉町上羽鳥地区のモニタリングポストは、一号機の爆発前にもかかわらず4613マイクロシーベルト(毎時)が記録されていた。通常の92000倍もの放射性物質が、幼子がいるにもかかわらず放出されていたのだ。

彼の陳述書の中にこうある。「私は中学生の時に、双葉町内に原子力発電所の建設が進められることをはじめて知りました。小学生の時にみた広島の原爆の惨状を思い出し『おっかないものなのにどうして造るの?』と父親に聞いたこともありました。父は『皆が賛成しているから止められない』と言いましたが、子どもながらにいつかこの原発 は壊れると思いました」

そんな少年がやがて町長になる。先祖代々、守るべき故郷。忌むべきことがあるからと、離れるわけにはいかない。トラブル隠しで町民にいぶかしがられていた東電幹部を町長室に呼び、「絶対事故は起こすな」と追及し続けた。「これからは隠しません。何でも報告します」という勝俣社長に「性善説」で応じた。すでに居座るものに対して、これ以上のことが出来る人は誰もいなかっただろう。

だからこそ「放射能は心の問題だ」という人に対し、「われわれと同じだけの放射能を被ってくれ」という言葉によどみがない。意見陳述の後、101号法廷は拍手に包まれた。女性裁判長は、それをとがめなかった。

裁判後の報告集会で「こんなに大勢の人が来てくれて・・・」と、井戸川さんは目を赤くして涙を流した。「この被ばく訴訟は、本当なら双葉郡の首長と共に闘いたかった」と言う。同じ苦しみを味わったのに、被ばくさせないどころか帰還を促す首長ばかり。孤立無援だった井戸川さんには、この四年間で沢山の仲間ができた。『美味しんぼ』で叩かれても何のその。鼻血の写真を毎日撮影し、声が出るまで訴え続けるという。

被ばくと隠ぺい、その二つに警告を発する井戸川さんに共感し、私もまた双葉町に注目し続けてきた一人だ。「皆さんの代表として、悔しさの思いはずっと持ち続けるから」。辞任を惜しむ人たちにそう語った前町長は、今もその約束を守り続けている。

川内原発を皮切りに、次々と再稼働が目指されている。先日鹿児島県に行ったが、福島のことは伝わっていないと感じた。命をかけたこの裁判のことを伝えていきたい。次回は11月19日、10時より東京地裁103号法廷にて。

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前町長による被ばく裁判 への1件のフィードバック

  1. 樋口 憲二 のコメント:

    初めまして。「井戸川裁判(福島被ばく訴訟)を支える会」の樋口です。
    当会は11月6日に結成され、を作成しました。
    当会のにて映画「原発の町を追われて」を紹介させていただきました。
    今後ともよろしくお願いいたします。。

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